聖霊降臨は主の過越の神秘の完成、そして教会の出発点でもあります。この聖霊降臨をもって復活節が終わります。教会の原点である聖霊降臨。どのようにして教会が始まったのかを考えてみましょう。

弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れ家の戸に鍵をかけて閉じ籠もっていました。恐れに満ちた弟子たちの真ん中にイエスは入って来られ、そして「あなたがたに平和があるように」と言われます。恐れに捕えられ、閉じ籠っていたということは、神を信頼して委ねる事ができなかったということです。それは、私たちの姿とも重なるでしょう。信仰を失い、恐れに捕えられている私たちのもとに入って来られるイエスは、私たちの真ん中に立ち、私たちに欠けているもの、一番必要なものを与えようとされます。それは何でしょうか。イエスのみが与えることのできる「平和」です。信仰を生きるとは、主が与えるこの平和を生きることです。そのためには、神への信頼がなければなりません。私たちを恐れから解放するもの、それは主への信頼とそこから来る主の平和です。

恐れに捕えられる時、私たちは自分自身の中に閉じ籠もります。心の戸を閉ざし、鍵をかけ、誰も入って来れないように…。この弟子たちの姿は、私たちの姿でもあるのです。そこへ復活の主が訪れたとき、大きな変化が生じます。「イエスの復活」とは、頭で考えて納得することではありません。固く閉ざされた私たちの真ん中にイエスが入って来られ、「あなたに平和があるように」と語りかけて下さる…、そのイエスに出会うことこそが私たちの復活のイエスとの出会いの体験です。

イエスの与える平和とは、単に争いがないという事ではなく、神の祝福が満ちているということです。復活したイエスは、私たちをその祝福で満たして下さいます。弟子たちは神の祝福を受けるのに相応しい者ではありませんでした。彼らはイエスが捕えられた時、イエスを置き去りにして逃げてしまった者たちです。一番弟子であるペトロは、恐れのために三度もイエスを「知らない」と断言しました。弟子として最後まで従い通すことができた弟子は一人もいませんでした。これが彼らの現実です。彼らはイエス復活の知らせを真っ先に受けながら、信じることができず、部屋に閉じ籠っています。不信仰と恐れの中にいる弟子たち、神の祝福を受ける相応しさなど何もない彼らにイエスは、「あなたがたに平和があるように…」と語りながら手と脇腹の傷を示します。それは、弟子たちがイエスを見捨てた時の傷跡であり、私たちの罪の傷跡です。その傷を見せながらイエスは彼らを祝福しているのです。人間の弱さと不信仰を示すだけでなく、私たちを根本的に、新しく生かすために復活したイエス。そのイエスは今、私たちの真ん中に立って同じように声をかけておられます。「あなたがたに平和があるように」と。それこそ、私たちにかけている、今一番必要なものではないでしょうか。これは、人間が努力して作り出すことのできる平和ではありません。

イエスは、私たちの罪や弱さを前にして見て見ぬふりをするのではなく、それをしっかりと私たちに示しつつ、「あなたがたに平和があるように」と語りかけておられるのです。そこに、弟子たちが立ち直るためのきっかけがありました。この時、弟子たちは、神の与える祝福とゆるしの意味を知ります。この時の弟子たちの喜びを私たちは見なければなりません。この喜びを生きることこそ、私たちの信仰です。それは、私たちが努力して何かを成し遂げることによって得られるものではありません。復活されたイエスが私のもとに来て下さることによって与えられる恵みです。恐れによって戸を閉ざしている私たちの心の真ん中に入ってこられるイエス。このイエスのみが与えることの出来る恵みです。

復活の主は、どこにおられるのでしょうか。暗いこの世の闇の中で、どのようにして私たちはお会いできるのでしょうか。聖書に登場する人々も、この方にお会いしたい一心で探し求め、一生懸命前を向いて歩いて行こうとしていました。しかし、その方は私たちの考える方向からではなく背後から語りかけて来られます。マグダラのマリアもそうです。もはや、イエスなしには生きていく希望もなくなった彼女は、せめて死んだイエスの遺体の近くにでも…と思い、泣きながら墓に行ったのですがそこには空っぽになった墓しかありませんでした。その悲しみのどん底で、思いがけないところで彼女は、生きておられるイエスを知ることになります。彼女は背後から語りかけるイエスの声に気付き、後ろを振り返ります。私たちが、イエスの方向へ向きを変える時、思いがけないところで、思いがけない恵みの現実にあった事を知らされるのです。イエスは、そのマリアを祝福し、彼女に使命をお与えになります。他の弟子たちにも、あなたが今見たこと、体験したことを告げなさいと。何も無駄になるものはありません。私たちの弱さも欠点も、不信仰さえも…。全ては福音の前進のために、復活されたイエスがおられる限り、全ては教会の中で役立てられるのです。

私たちも、復活の主によって与えられる平和のうちに新しく歩む力を頂きたいものです。それまで弟子たちが閉じ籠っていたのは、自分を守るためでした。そこから出て来るように主は招いておられます。この呼びかけがなかったなら、私たちがどんなに勇気と力を振り絞って頑張ったとしても、人間の力だけで前に進むことはできません。固く閉ざされた人間の心の真ん中にイエスが来て下さり、「あなたに平和があるように」と語りかける主の声を聞くことによって初めて実現される恵みなのです。

 弟子たちに息を吹きかけるイエス。それは聖霊を与えるイエスの姿です。聖霊の力によって、私たちは新しく生き始めます。それでも、弱い人間であることに変わりはありません。しかし、その不完全な人間を通して、そこに聖霊が注がれ、教会が生まれたということが重要なのです。私たちが見なければならないものもそこにあります。人間の弱さに躓いてはいけません。人間の集まりであるにも関わらず、そこに聖霊が働くからこそ、教会はキリストの体なのです。それこそ、私たちが見なければならない信仰の神秘です。

主の復活は、私たちにとって第二の創造と言われます。第一の創造は、創世記の場面です。神は、土の塵から人間を形づくり、神の息を吹き入れました。その事によって人は生きる者となったと創世記は語ります。(2章7節)それと同じことが、今にここで起っているのです。文字のない時代の人々が、神との出会いの体験をどのように伝えようとしたかを考えながら、そこに隠された大切な意味を読み取らなければなりません。

復活の日、弟子たちに息を吹きかけるイエスの姿が思い出されます。そうです。弟子たちがそうであったように、人は神から聖霊を与えられることによって新しく生きるようになるのです。イエスが与えるこの聖霊を受けることによって、新しく生きるよう私たちも招かれているのです。

「あなたがたに平和があるように…」。このイエスの言葉から教会が生まれました。

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。

本当の平和を失っている私たちに、イエスが願っておられることは、聖霊によって私たちが新しく生かされる者、その喜びを人々に伝える者となることでした。そのためにイエスは手と脇腹の傷を示しつつ、「あなたがたに平和があるように」と告げているのです。新しい命と救いがここにある事を知って欲しいからです。その救いを人々に証しし、伝えるために私たちは遣わされています。私たちがそこで証しするのは、自分の手柄ではありません。イエスの十字架と復活によってもたらされる平和であり、聖霊によって与えられる慰めです。それが告げられる時そこには、イエスの救いに与かる人々が現れます。福音が伝わるのは、私たちが説得力のある仕方で上手に語ったからでありません。聖霊がその人に働き、聖霊が信じる恵みを一人ひとりに与えるから救いの出来事が起るのです。

私たちの現実がどんなに拙いものであっても、そこに聖霊が働く限り、イエス・キリストご自身が働いています。イエスを通して私たちは、地上の教会にありながら天上の教会の恵みにも与っているのです。全教会の一致のために祈りましょう。