「神の愛」と「苦しみ」は、一般的には結びつきません。「苦しみ」があるならば「神の愛」はない。「神の愛」があるならば「苦しみ」もないと考えがちです。ですから キリスト者であっても苦しみに遭う時、その信仰は揺さぶられます。

 実は、人となられた神の御子イエスも同じ体験をされました。神の御子であっても人となられた以上、この世の苦しみから免除されることはありませんでした。と言っても、本来イエスは罪のない方ですから、自分の罪の故に苦しんだ訳ではありません。イエスの苦しみは純粋に他者のための苦しみでした。それは、イエスがメシアとしてこの世に来られたゆえの苦しみであり、そこに 人間の思いを超えた神の救いの神秘があります。

 そのイエスに父なる神は語っています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と。これは、御父が御子に語られた言葉です。御父との交わりは、イエスの全生涯を貫いていたものです。「神の愛」があるなら「苦しみ」はない…と私たちは考えますが、しかしそうではないのです。神の愛があるからこそ、地上の苦しみを担うことができる という生き方をイエスから学んでいるのです。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御父の語りかけを、イエスは洗礼の場面で聞いています。全人類を代表する一人の人間としてイエスは御父の御前に立ち、この言葉を聞いておられるのです。ですから、イエスが一人の人間としてヨハネから洗礼を受けられたその瞬間から、今までにはないことが起りました。それは、私たちの洗礼にも深い意味を与えるものとなります。本来、洗礼を受ける必要のない方イエスが、私たち罪人の先頭に立って 一人の人間として洗礼を受けられたことにより、教会に新たな霊的恵みが湧き上がってきたのです。それまでヨハネが授けていた洗礼は秘跡ではありませんが、イエスの御名によって授けられる教会の洗礼は秘跡です。こうして私たちは、イエスとの解くことのできない強い絆で結ばれ、イエスを通して三位一体の交わりにまで導かれる道が開かれました。そのことが実現するために、神の御子イエスは天使ではなく「人間」となられたのです。

 別の箇所でイエスは弟子たちに語っています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18‐20参照)

 今日は、私たちが頂いている洗礼の恵みを思い起こしましょう。その源はイエスの洗礼にあります。洗礼を受けたイエスに向かって天が開け、「あなたはわたしの愛する子」という御父の語りかけがあり、聖霊が鳩のように降りました。イエスに繋がる私たちにも、同じことが起っているのです。

イエスがヨハネから受けた洗礼。その後 教会が授けている洗礼。この二つの間にあるものは何でしょうか。それはイエスの「十字架と復活」です。そこに秘密があります。イエスは、生まれた時から息を引き取る最期まで全生涯において十字架の道を全うされました。その偉大な救いのみ業ゆえに、教会の洗礼は意味を持っているのです。御父と御子と聖霊の見事な連携の中で、私たちの救いに必要な神の計画が成し遂げられました。それゆえに、2千年前イエスにおいて起こったことが、今の私たちにとっても意味ある現実となるのです。

 イエスに向かって開かれた天は、私たちに対しても閉ざされることは決してありません。あの時 イエスの上に注がれた神の霊が 私たちにも注がれます。「あなたはわたしの愛する子」という神の思いは、私たち一人ひとりにも向けられています。イエスが聞いた御父のあの言葉を思い起こしながら、神に愛されている者としてイエスと共に生きるのです。そのために、私たちはここに集められています。

それは、苦難を免除されることを意味していません。「わたしについて来たい者は、あなたの十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエスは言われました。私たちは、神から愛された者としてこの世に遣わされています。そこには負うべき十字架がたくさんあるのです。キリストに従うゆえに、負うべき十字架があるのです。しかし、この十字架は神の愛と深く関係しています。私たちは、全教会への愛によってこれを引き受ける時、イエスの十字架は負いやすく軽いものとなります。そこには、神の助けが必ずあるからです。

洗礼の準備をしている全ての方々のために聖霊の導きを祈りましょう。そして、成人のお祝いを迎える全ての若者たちの上にも神様の豊かな祝福と恵みがありますように…。