今日の福音はカナの婚礼の場面です。婚礼とは、一つの家庭が新しく誕生する時です。その喜びを分かち合おうとするイエスの姿が、ここには描かれています。ところが、この大切な宴会の最中、喜びのしるしであるぶどう酒がなくなってしまいました。宴会の世話をしていた女性たちの間に動揺が走ります。その中にはイエスの母もいました。マリアはイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言っています。それに対してイエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と語っています。それは、どういう意味でしょうか。一見、マリアを突き放しているような冷たささえも感じられますが、そうではないのです。
イエスの言葉を聞いたマリアは、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っています。母は、イエスが何か行動を起すことを予感しながらこのように語っているのです。実際、その通りになりました。イエスは召し使いたちに、その水がめに水をいっぱい入れるよう命じ、他の誰にも知られることなく、その水は最高級のぶどう酒に変わったのです。婚宴は滞りなく進行していきました。それどころか、世話役は花婿を呼んで、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と褒めています。これが、イエスのなさった最初の奇跡です。
ヨハネ福音書は、イエスの奇跡を「しるし」と表現しています。このしるしは全部で七つあり、それらを軸にして、ヨハネ福音書はイエスの生涯を語り、イエスの栄光の意味を示すのです。イエスの栄光とは、「父の独り子としての栄光であり、恵みと真理とに満ちていた」(1・14節)と語られるあの栄光です。まことの神である方が人間となってこの世に来て下さり、私たちの間に宿って下さったことによって、地上の闇の中に神の栄光が輝き出すのです。イエスの奇跡は、そのことのしるしです。それを見て、弟子たちはイエスの中に光を見出すようになります。
ヨハネは、そこにこの福音書が書かれた目的があったと最後に語っています。
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名による命を受けるためである。(20:30~)
ヨハネがイエスの奇跡を中心にその生涯を語るのは、イエスが何者であるかを教えるためであると言っています。そのしるしを見た弟子たちがイエスを信じ弟子になったという出来事は、まずあの弟子たちを通して、イエスの福音が動き始めたということなのです。
ぶどう酒に変えられた水がめは、「ユダヤ人たちが清めに用いるための水がめ」でした。ヨハネは、そこに象徴的な意味を見ています。ユダヤ人たちにとって水がめは、なくてはならない大切なものでした。それは単に飲み水や衛生的なことのためだけではなく、神の民として、神の御前に出るために、この水で罪の汚れを洗い落とし、清くならなければならなかったからです。そのままでは、神の御前には出ることができなかったのです。だからこそ、イエスが、そのかめいっぱいに満たされた水を ぶどう酒に変えたということに重要な意味があるのです。
それまで、罪の清めのために用いられていた水が、イエスによって祝宴のぶどう酒に変えられました。救いを喜び祝う時代が、いよいよここから始まろうとしているのです。この奇跡は、イエスによって神と人間との関係が決定的に変えられたことを示しています。それまで人間は、自分で自分を清くしなければなりませんでした。しかし、イエスが人となられたことによって、私たちは、神の子イエスの前にそのままで出ることができるようになりました。罪人である私たちを、イエスが招いて下さり、祝福して下さり、その交わりを生きて下さり、共に喜びを分かち合って下さったからです。それは、イエスの十字架によって実現された救いです。十字架の死と復活に至るイエスの全生涯によって、神の救いのみ業は確かなものとなっていきます。
キリスト者は、自分で自分を洗い清めるのではありません。イエスが与えて下さるぶどう酒によって初めて罪のゆるしを受け、神の国の祝宴の喜びを先取りするよう招かれているのです。そこに心に留める時、イエスとマリアの不可解と思えるあの会話の意味が見えてきます。「ぶどう酒がなくなりました」と言うマリアの言葉も、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と語るイエスの言葉も、単に、マリアとイエスの関係のみにおいて語られたものではないのです。この奇跡は、神との交わりを失っている私たち人間のためになされたものです。イエスの言う「わたしの時」とは、もうお分かりでしょう。それは、「十字架の死と復活」のことです。この時点において、その時はまだ来ていません。しかし、そう言いながらイエスは、ご自分の十字架の死と復活によって実現する救いを先取りするよう、母マリアを祝宴の喜びに招き入れています。この世のいかなる不慮の出来事によっても、私たちを救おうとする神の計画は、取り消されることなく進行していくのです。
母マリアも、この時点においては、これらのことを完全に理解していたわけではありません。しかし、誰よりもイエスの思いを感じ取っていました。ですから「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召し使いたちに願っているのです。
この召し使いたちが、イエスの最初のしるしを直に体験した人々です。花嫁も花婿も、宴会の世話役や宴会に連なっていた人々も、イエスのしるしに気づくことはありませんでした。このぶどう酒がイエスの力によるものであることを知ることができたのは、マリアと召し使いたちだけでした。彼らがしたことは、イエスの命令に従って、かめに水を満たし、それを汲んで持って行く奉仕の仕事をしただけです。その彼らと母マリアだけが、ここで行われている神の神秘に最初に触れた人々だったのです。
「召し使い」と書かれているのは、「奉仕をする人」という意味です。私たち一人ひとりも主に奉仕するものです。それがキリスト者に求められている生き方です。その中で私たちは、イエスの恵みを体験し、イエスの栄光を見るのです。私たちは、一人ひとりの賜物に応じて、それぞれに相応しい奉仕を生きる中で、このイエスの隠れた奇跡を体験するよう招かれています。それは分かる人には分かる不思議なしるしであり、私たちはこれを見逃してはいけないのです。「奉仕する人々」に命じられたことが、かめに水を満たし 運んでいくことであったように、その奉仕は、決して難しいことではなく、ごく単純な仕事です。しかし、彼らはその中で、イエスの大きな恵みを体験し、神の大きな栄光を見る恵みにあずかったのです。
これは単なる奇跡の話しではありません。これは、イエスこそ神の子、救い主であることを確信させる信仰の話しなのです。イエスが私たちに求めておられることは、祈りの奉仕によって教会を支えることです。マリアは今も私たちに願っています。「あの方が、あなたに何かを言いつけたら、そのとおりにしてあげてください。そのとき あなたは大きなしるしを見るでしょう」と。マリアのように、心に深く思い巡らす中で、私たちの信仰も深められていきますように…。