東方の学者たちが、幼子イエス礼拝するためエルサレムにやって来ました。彼らは、異邦人です。にもかかわらず「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と聞いています。ヘロデ王はこれを聞いて警戒心を強め、「メシアはどこに生まれることになっているのか」と問いただしています。

 今では世界中でクリスマスが祝われていますが、もともとは、ユダヤ人を救う彼らの王としてユダヤ人たちによって待ち望まれていたメシアです。そのメシアが誕生した時、幼子を礼拝するためにやって来たのはユダヤ人ではなく、東方からやって来た異邦人であったことを今日の福音は伝えているのです。しかも、彼らは「占星術の学者たち」でした。それは何を意味しているのでしょうか。

律法では、占いやまじないが厳しく禁じられています。(申命記8:10以下)。ユダヤ人からすればこの占星術師らは、救いから最も遠い部類の人々であったのです。しかし、そのような彼らが、メシアを求めて遠い国からやって来て、メシアを礼拝し、喜びにあふれた、と聖書は伝えているのです。これはまさに後の教会の歴史を象徴している出来事であると言えます。後に、イエスが宣教を開始した時イエスのもとに来て喜びにあふれた人々も、当時軽蔑されていた徴税人たちや罪人たちでした。神の招きはいつでも私たちの思いを越えています。遠い国から来た学者たちの喜びは、単に目的地に着いた喜びではなく、メシアのもとにたどり着いた者の喜びです。しかし、メシア誕生の知らせを聞いた多くの人々は不安を抱いています。自分の古い世界にしがみついている人々にとって、メシアの到来は喜びとはならなかったのです。

 救いを求めるということは、自分よりも大いなる神の救いに自分自身を完全にゆだねることです。古い自分の世界を棄て、神のみ前に自分自身を差し出すことです。そこに救いがあります。

 しかし、人間にとってそれは難しいことです。自分が自分の人生の主人でありたいと思うからです。そうである限り、救い主メシアの誕生は不安材料にしかならないのです。

 東方から来たこの占星術師とは、どのような人々であったのでしょうか。星の運行が人間の運命を支配していると信じられていた古代の世界において、彼らはそれなりの高い地位を持っていました。ですから、彼らはエルサレムに着いてすぐにヘロデ王に謁見もできたのです。しかし彼らには、自分の古い世界を守ることよりも大事なことがありました。それは、本当の意味でひれ伏すべき方を見出し、その方を礼拝することだったのです。

 彼らは「黄金、乳香、没薬」を携えて行きました。それらの捧げ物は、占星術師にとって大事なものです。それを捧げたのです。彼らが持っていた古い世界観をメシアの前に献げたことを意味します。彼らは帰る時、もはや星に尋ねるのではなく、神の御声に従って行動しています。本当に礼拝すべき方を求めていた彼らにとって、星の出現は決して不安をもたらすものではなく、むしろ希望となり喜びとなったことが分ります。

 彼らは、ありとあらゆる書物に当たり、到来するメシアについて調べることもできる立場にありました。しかし、彼らは先ず立ち上がり、メシアに会うために旅に出たのです。調べることなら書物を通してもできます。しかし、礼拝するためには自分自身、幼子のもとにまで出かけていかなければならないのです。

 時の祭司長や律法学者たちはヘロデ王から、メシアはどこに生まれることになっているのかと尋ねられ、すぐに旧約聖書ミカ書を示しながら「ユダヤのベツレヘム」と答えることができました。彼らはメシアがベツレヘムに生まれるということは知っていたのです。占星術の学者たちが、今からそこに向かおうとしていることも知っていました。しかし、彼らは、自分がその場に行くわけではありません。占星術の学者たちは、遙々遠くから砂漠を越えて 冒険を犯してまで旅をしています。二千年前のその旅が、いかに困難な旅であったか想像を超えます。しかし、彼らは求め続けました。そして、ついに辿り着いたのです。そこに大きな喜びがありました。この喜びに与った彼らは、もはや星に尋ねるのではなく、神の言葉に従って行動し、帰りは別の道を通って帰りました。

 あれから二千年の時を経て、私たちのもとにも救い主キリストの誕生が伝えられています。問われているのは私たち自身です。私たちは、あの占星術の学者たちのように喜びに満たされる生き方をすることもできますが、ヘロデになることもできます。東方の人々の心を満たした喜びが、新年を迎える私たちにも満ちあふれますように…。

「エルサレムよ 起きよ、光を放て。…主の栄光があなたの上に現れるそのとき、あなたは喜びに輝き 心は晴れやかになる」。(第一朗読 イザヤ60参照)