「ファリサイ派の人と徴税人が、祈るために神殿に上った」というたとえです。全く対照的な二人です。ファリサイ派は、神の前に出るのに 自分たちこそ最も相応しい人間であると自負していました。それに対して徴税人は罪人の代表ですから、ユダヤ人たちからは嫌われていました。

 神殿で祈る二人の姿も対照的です。ファリサイ派の人は、感謝の祈りを捧げています。しかし、その中身は「あの徴税人のような罪人でない自分を感謝します」という、傲慢な祈りです。他の人々が、決して真似できないような慈善の行いをしている私をご覧下さい…、という祈りです。

 徴税人の祈りはどうでしょうか。彼は神殿の隅に立ち、「神よ、罪人のわたしを憐れんでください…」と、祈っているだけです。彼は、自信を持って神と人々の前に出ることが出来ない自分である事を自覚しています。ですから、「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」と、たった一言祈ることしかできませんでした。罪によって失われた神との関係を、もう一度回復させてくださいと祈っているのです。イエスは言われます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのはこの徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない。 高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。

 どうして、ファリサイ派の人の祈りは受け入れられなかったのでしょうか。人間の側から見れば、ファリサイ派の人々こそ、非の打ち所がない生き方をしている人々と思われていました。しかし、神は違いました。神との交わりが閉ざされていたのは、徴税人ではなくファリサイ派の人だったのです。

 ファリサイ派の人は神に感謝していますが、彼が見つめているのは神ではありません。彼の目は徴税人に向けられています。彼の感謝は、周りの人々と自分とを比較することによる感謝です。彼が祈りにおいて見つめているもの…、それは 自分がどれほど立派な信仰を持っているか、どれだけ素晴らしいことをしているかということです。彼の祈りは、神ではなく他の人と自分自身ばかりに向けられています。神を利用しているだけです。それは、祈りではなく独り言に過ぎません。そこに、彼の祈りの根本的な問題があります。

 徴税人の祈りはどうでしょうか。彼の祈りは、しっかりと神に向けられています。まさに神に向けられた祈りです。神は、彼の全存在をかけたその祈りに応えておられるのです。誰かと比較することではありません。神が私たちに求めておられる事は、「他の人はどうであれ、あなたは どうなのか。」という事です。「罪人のわたしをおゆるしください…」という徴税人の祈りが、どれほど重要であるかを知らなければなりません。

 福音の価値観を知らなければ、どうしても人間の評価が基準になります。そして、その評価に振り回されつつ生きることになります。自分を高く見せようとする思いの裏返しとして、他人を見下す生き方が生まれるのです。しかし、どんな罪人であろうと、その目を神に向けるならば、あるがままの自分の姿に気付かされます。神はその人の祈りを受け止めて下さいます。どんな罪であっても、赦されない罪というものはありません。そのために、イエスは十字架に死んで下さり、復活して下さったのです。私たちは、キリストによって既に到来しているこの恵みの証人となるよう招かれているのです。

 十字架へと向かうイエスが、弟子たちと最後に行われたことは、“最後の晩餐”の出来事でした。これを世の終わりまで続けるようイエスは望まれ、その任務を使徒たちに託されました。イエスの祈りと共に、世の終わりまで続けられる教会の祈りです。

十字架と復活による恵みはイエスが到来したことによって、たとえ部分的であろうと既に始まっています。それが、最終的にどのような形で完成されるのか、今の私たちには明らかにされていません。しかし、神は、信頼して祈る使命を教会に与えているのです。

祈りにおいて私たちは、自分自身を振り返る必要があります。それは、あるがままの自分を知らなければ祈りにならないからです。あのファリサイ派の人の心の中には、何もやましいことはなかったかも知れません。しかし、彼に神は必要なかったのです。彼は、救いさえも 自分の努力によって獲得できるものと勘違いしていました。それに対して、徴税人は誰が見ても立派な罪人です。彼自身、その事を誰よりもよく知っていました。ですから、彼は遠くに立ったまま、「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るしかなかったのです。その祈りは、天にまで届きました。ここに、祈りの神秘、教会の神秘が示されています。教会は、神によるゆるしと憐れみに出会う場です。その事を自覚した人々の集まりが教会なのです。単独の祈りであっても、私たちがこの教会に結ばれている限り、その祈りは私たちの思いを超えて働きます。

徴税人は、神に委ねて生きる以外に自分の立つべき場所はないという事に気付きました。神が、愛の存在でなかったなら、赦しの神でなかったなら…。彼は、絶望の中で滅びるしかありません。しかし、出会ってしまったのです。人間が造り出した神ではない真実の神に出会ったのです。そこに、本当の祈りが生まれました。彼は、自分に寄り添い、自分と共に生きようとする神の存在に気付きました。私たちの祈りは、この神の心を知り受け入れるための祈りです。自分ではどうすることも出来ない悲しみと限界の中に神はおられます。その嘆きこそ、最高に価値ある祈りです。十字架のイエスに直接結びつく祈りだからです。祈りを知らない私たちにイエスは、「あなたも このように祈りなさい」と教えておられます。言葉になっても ならなくても、私に代って祈る“十字架の祈り”がそこにあります。ですから、言葉にならない貧しい祈りもイエスの祈りと共に、御父に届くのです。放蕩の限りを尽くした息子の帰りを、今か今かと待ち侘びる父の姿(ルカ15章11以下参章)を思い起こして下さい。それが神の心なのです。