イエスと弟子たちの旅は、ガリラヤからエルサレムへと向かう旅です。イエスと弟子たちは今エリコを出発し、いよいよエルサレムに入ろうとしておられます。 丁度この時、ユダヤ人の最大の祭である過越祭が近づいていました。ですから大勢の人々がエルサレムへと上っていました。その巡礼者たちからの施しを期待して、エリコの町の門には大勢の物乞いたちも並んでいたのです。その中に、バルティマイという盲人の物乞いがいました。当時の社会において、目が見えない人は、人通りの多い道端に一日中座って、道行く人々に憐れみを乞いながら恵んでもらうしか生きる術はなかったのです。バルティマイは、そのような苦しみの現実を長い間生きてきた人であることが分ります。この日彼は、周囲の雰囲気がいつもとは違うことに気づきます。ナザレのイエスが通って行こうとしているのです。それを知った時、彼は大声で叫び始めています。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。どんなに大声で叫んでも、彼にはイエスが今どこにおられるのかを見ることはできません。周りの人々も彼を叱りつけ黙らせようとします。しかし、それでも彼は「ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい』と叫び続けた。」と書かれています。バルティマイはイエスに向って「ダビデの子イエスよ」と叫んでいます。この呼び方はユダヤ人にとって重大な意味を持っています。ダビデは、イスラエルの王を代表する重要な人物です。その子孫であるイエスよ…という意味ですが、同時に旧約聖書では、ダビデの子孫からイスラエルの救い主であるまことの王が現れ、神の救いがその王によって実現される、という預言がありました。ですから、神から遣わされた救い主という意味で彼はイエスに願っているのです。「あなたこそ、神が約束して下さっていた救い主です」という彼の信仰告白でもあるのです。神からの救い主と信じて、そのイエスに「私を憐れんでください」と呼び求めているのです。苦しみの中から叫び求める彼の声をイエスは聞いて立ち止まりました。そして彼を、ご自分のもとへ連れてくるようにと周りの人々に願っています。ここに、救いにあずかることがどのような事なのかが示されています。苦しみの中でイエスに救いを叫び求める私たちは、イエスによって呼ばれ、それに応え、そしてイエスのもとに行くことによって救いにあずかるのです。私たちがイエスに出会うことが出来るのは、先ずイエスが呼んでくださったからです。イエスが呼んでおられることを当人は「人々」を通して知ります。人々は彼に、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と告げました。ここで語られている事は私たちの信仰にとって、大変参考になります。「安心しなさい。」安心して、喜びなさいと言うことです。
湖で、逆風に漕ぎ悩んでいた弟子たちのもとへイエスが水の上を歩いて来られ時の言葉も同じ言葉です。「私はここにいる。安心しなさい。恐れることはない。」
苦しみの中から救いを求める人々の叫びをイエスは受け止め、先ず「安心しなさい。」と勇気づけ、喜びと平安を与えているのです。そして、「立ちなさい」と言っています。
第一の言葉によって喜びと安心を与えられ、私たちは立ち上がってイエスのもとに行く事ができるのです。その時私たちを支えているのは、「主が、あなたを呼んでおられる」という言葉です。イエスが呼んでおられる。だから安心して、喜んで、勇気を持ってイエスのもとに行くことができるのです。この人は、「上着を脱ぎ捨て、踊り上がって」イエスのところに行きました。目が見えないこの人の歩みは手探りで、おぼつかない足どりだったことでしょう。私たちも同じです。信仰を求め、イエスとの出会いを求めて歩んでいます。真におぼつかない足取りでありながらも、イエスが呼んで下さっている喜びから、安心して、手探りしながらでも勇気を出してイエスのもとに行くことができるのです。
「上着を脱ぎ捨てて……」。物乞いをして生きて来たそれまでの生活の全てを脱ぎ捨てて、無一物になって、彼はイエスの元に急ぎました。彼はもう既に新しくされています。「何をしてほしいのか」というイエスの問いかけに彼は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えています。自分はこのように新しくなりたい、変えられたい、という願いを彼がはっきりと持っていたことが示されています。目が見えるようになることによって、それまでの生活を脱ぎ捨てて新しく生きていきたい、という切なる願いもってイエスのもとに来たのです。イエスの救いにあずかるとはこのようなことです。それまで持っていたものを抱えたままで、福音の語る救いにあずかることはできません。脱ぎ捨てるべきものを脱ぎ捨てることが必要なのです。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。…… この言葉によって、彼は救われました。彼の信仰の力によって目が開かれたということではありません。彼の目を見えるようにしたのはイエスご自身の力です。しかしイエスは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と彼が叫び続け、イエスによる救いを切に求めたことを、彼の信仰として受け止めて下さっているのです。
このようにして彼は目を開かれ、新しくされました。彼自身、想像もしていなかった人生がそこから始まりました。そして大切な事があります。見えるようになったこの人は、「なお道を進まれるイエスに従った」という言葉です。目が見えるようになった彼が最初にしたことは、「イエスに従う」ということでした。イエスから「わたしに従いなさい」と言われたわけでもありません。イエスは一言、「行きなさい」とおっしゃっただけです。「あなたの信仰があなたを救った。だから安心して、どこへでも行きなさい。」と。
彼が、心の底で本当に願っていたのは、自分の手で仕事をして人並みの生活をすることではなくて、このような救いの恵みを与えて下さる方との出会いだったのです。彼が本当に求めていたのは、救い主との出会いだったのです。イエスによって目を開かれたことによって彼は、イエスに従っていく者へと変えられ新しくされたのです。
イエスがなお進んで行かれる道はエルサレムへの道、十字架へと向かう道です。その道を彼はイエスと共に歩んで行ったのです。その先で彼は、十字架上で死なれるイエスを見ることになります。恐ろしさの余り、その場から一時は逃げ出したであろう彼も、徐々にイエスの死の意味を悟るようになります。自分の目を開いて下さったイエス、長年の苦しみから解放して下さったイエス、そのイエスが死なれるのを見た彼の信仰も徐々に変えられていきます。そのイエスが三日目に復活なさったことを知ったときの彼の喜びはどれ程大きなものであったことでしょう。イエスが十字架の死と復活によって、救い主としてのみ業を完成して下さったことを悟ったに違いありません。そのようにして彼は、初代教会の基礎を築く一人となったのです。福音書が書かれた時代の教会において、彼の名が「ティマイの子バルティマイ」として知れ渡っていたことが分ります。イエスによって目を開かれた彼は、イエスの歩まれる道をイエスと共に歩む者となり、その歩みの中で、イエスの十字架と復活の救いにあずかる信仰が何であるかを示す者となったのです。
バルティマイは、自分の前を通っていかれるイエスを逃しませんでした。この機会を逃したら、彼はイエスと出会うことは出来なかったでしょう。ただ一度だけのチャンスを彼は捉え、イエスに向かって叫び救いを求めたのです。私たちがイエス・キリストと出会うのも同じ事です。自分から作りだしたチャンスではなくて、イエスが近づいて来て与えて下さったチャンスです。そのチャンスを逃さず捉えることが大切です。そのためにバルティマイは、どこにおられるか分からないイエスに向って大声で叫んでいます。イエスによる救いを求めて叫び続けるその熱心さによって彼は救いを得たのです。
イエスは今も十字架への道を歩んでおられます。そして私たちがこのイエスを呼び求めるチャンスを与えて下さいます。主は、私たちからの呼びかけを待っておられます。バルティマイの姿は、私たちがイエス・キリストと出会い、その救いがどのようにして起るのかを示してくれています。