復活を認めるファリサイ派、これを否定するサドカイ派。両者は対立していました。ここに登場する律法学者はファリサイ派の人です。彼は、イエスの的確な説明に感心しながら次のような問いをしています。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。この律法学者は、日常生活を規定している律法の解釈について人々に教える立場にあります。その彼が、律法の中心は何なのか とイエスに問うているのです。それは、サドカイ派のように、イエスを陥れようと企んでの事ではありません。日常生活において忘れてはならない信仰のポイントは何なのを聞いているのです。

 イエスは、誰でもが知っている申命記6章4以下の言葉を引用して答えています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」。これは、ヘブライ語の「シェマー」(聞け)という言葉で始まるユダヤ教の祈りで、これは あらゆる掟の中で最も大切なものであると答えています。掟や律法は、先ず神への愛によって受止められなければならないと言うことです。その根底にあるのは「神は、唯一の主である」という事実です。このことを正しく理解していなければ、信仰を相応しく生きることはできません。なぜなら、神との一対一の人格的交わりを深めるところに焦点がなければ、私たちの信仰は 道徳や倫理の世界しか見えない、偏ったものになってしまうからです。

 神との交わりを生きる上で大切なものは、互いの出会いに基づく信頼関係です。他の何者もそこに割り込むことはできません。それは、神が人格的存在だからです。人が神を愛することと、その神が唯一であることは切り離すことができません。もし、神がそのような存在でなかったなら、私たちにとって神は愛する対象にはなりません。神が唯一であるからこそ、私たちはこの神に語りかけ、信頼のうちに委ねることができるのです。それが律法や掟の中心にある大切な事だと言われるのです。律法や掟が与えられた目的もそこにあります。神が大切にしておられることは、私たちが 細かい掟をどれだけ多く知っているかということではありません。イエスは、先ず神との関わりを通して愛を学び、深めなさいと勧めているのです。しかも、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛しなさい。すなわち、ある一部分だけでなく、あなたの心の全てをもって、あなたの精神の全てを尽くして、あなたの思いの全てをもって、あなたの存在の全てをもって 神である主を愛しなさい」と語ります。一部分だけの愛は、愛とは呼べません。一人ひとりの違いの中で どのようにそれを受止め生きるか…。それは、聖霊の導きの中で示される神の恵みに 私たちがどこまで気付き協力できるか ということとも関係しています。

イエスが言われるように、神を愛することと、隣人を自分のように愛する という掟は切り離すことが出来ません。目に見えない神は愛せても、目に見える隣人は愛せない というのであれば、それは 神への愛が本物ではないからと言われます。目に見える隣人との関わりが、目に見えない神との関わりをも映し出しているというのです。誰にも負けないくらいに神を愛しているつもりでも、自分で勝手に造り上げた神を愛しているだけかもしれません。それは結局、自分自身を愛しているに過ぎないのです。ですから、イエスの言う隣人とは、自分の好きな人、好意を持っている人ではありません。自分にとって好ましくない人、自然にはとうてい愛することのできない人に愛を生きなさい、それが神への愛のしるしであると仰るのです。神への愛ゆえに これを生きようとするところで、神を愛することと隣人を愛することとが一つとなるのです。

イエスの言う「愛する」とは、どういう事を意味するのでしょうか。それは、一言で言えば ゆるすことです。「自分自身を愛するように 隣人を愛しなさい」という言葉とも関係しています。「自分を愛するように」…、これは「自分をゆるしているように」と言い換えることもできるでしょう。私たちは、自分のことはどこまでもゆるしながら、人に対してはゆるせない気持ちを持ってしまう限界があります。そのような私たちに、「あなたがたは 自分をゆるしているのだから、同じように隣人をもゆるしなさい」と言っておられるのです。しかし、それだけで十分なのではありません。もし それだけなら、「自分に厳しい人は、隣人にも厳しくしてよい」ということにもなります。そうではなくて、「あなたがたは自分を愛し、ゆるしなさい、そして隣人をも愛し、ゆるしなさい」ということです。心の深い所で、私たちは自分をゆるし、受け入れているでしょうか。イエスは私たちを、ゆるし受け入れながら、福音の喜びを生きる者になりなさい と語っておられるのです。

 律法学者は「先生、おっしゃるとおりです。」と言っています。それは「先生、立派な、正しいお答えです」ということです。彼は続いてイエスにこう言っています。「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する ということは、どんな焼き尽くす献げ物や いけにえ よりも優れています。」と自信を持って答えていますが…、実は そこに危険があることもイエスは見抜いておられます。神を愛することと隣人を愛することが結び付いていること、そこに律法全体の中心があることを理解した彼でしたが…、果たして、私たち人間に この愛を生きる力が本当にあるのでしょうか。

「あなたは神の国から遠くない」。イエスのこの表現には深い意味があります。「あなたはもう神の国に到達している」と仰った訳ではないのです。「あなたは、神の国の近くまで来てはいるが、しかしまだそこに到達してはいない」と仰っているのです。この人に、なお欠けているもの…、それに気付くことは、私たちが福音を生きる上で非常に重要なことでもあります。それは、「心と思いと力を尽くして神を愛すること」、そして「隣人を自分のように愛すること」の二つを、彼は自分の力や努力によって成し遂げられると思っていることです。

私たちにとって、神を愛するとはどういうことでしょうか。神を愛していると思っていても、もしかしたら それは自分の存在の一部分においてだけ、状況が思い通りに行く時だけのことではないでしょうか。ゆるし得ない人をゆるすという生き方を自力で出来る人が果たしているでしょうか。振り返って見るなら、私たちは自分の努力だけによってこれを生きることは不可能なのです。あの律法学者は、聖書や律法に精通しており、イエスの言葉を的確に捉えている律法の専門家でした。しかしその知識によって彼は、悔い改めにまで導かれたわけではありません。それでも、イエスは「あなたは神の国から遠くない」と言っているのです。それはなぜでしょうか。

今、あなたの目の前にわたしはいて あなたに語りかけている。このわたしを信じ、わたしに依り頼んで歩むこと、それがあなたに欠けているものである。そのことを理解したとき、あなたは神の国に到達することができる、とイエスは語っておられるのです。

イエスの存在。それは神が愛とゆるしの存在であることのしるしです。神がその全存在をかけて私たちを愛してくださった…その愛の現れがイエス・キリストです。このイエス・キリストが私たちの近くにいて護っておられるがゆえに、私たちは神の愛から遠くないのです。愛を生きようとしても愛を生きれない、ゆるしを生きようとしてもゆるしを生きれない、そういう私たちを 神が先に、イエス・キリストによって愛し、ゆるしを頂いている。それゆえに、神の国から遠くないのです。それは確かに大きな恵みです。しかし、愛を生きれない限界があるからと言って、そこに留まっているだけでよいのでしょうか?

イエスは、驚くべきことを示されました。このような限界ある私たちは、イエスが示しているさらにその先にあるものを目指して歩むよう促されます。イエスのこの言葉は、イエスの全生涯を通して見るならば豊かな意味を持っています。それまでに示された旧約の掟は「あなた方は、自分を愛するように隣人を愛しなさい」というものでした。しかしこれからは、「十字架のうちに示されたイエスの愛によって、人間の限界を乗り越え、ゆるしと愛を生きる者になりなさい、それがあなた方の使命である」と仰るのです。それこそがイエスの教える「新しい掟」なのです。「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに…。」(ヨハネ13:34)

神を愛していると言いながら、目に見える兄弟を愛さないなら それは福音の姿ではないのです。しかし、神はどうして これ程までに「愛する」ことを私たちに願われるのでしょうか。それは、神ご自身が愛だからです。愛そのものである神は、私たちを「愛し、愛されるもの」として創造されました。ですから、神の愛に対する尽きることのない飢え渇きが、私たちの心の奥深くにはあるのです。

このような限界ある私たちであっても、出来ることをイエスは教えてくださいました。それは他の人々のために とりなし祈ることです。あなたの隣人を 主の愛で覆いなさいと言われます。「愛は多くの罪を覆うもの」だからです。(Iペテロ4:8) 幸い、私たちの罪よりも神の愛は大きく強いものです。掟や命令という狭い観点からではなく、「神と人々を愛する」という観点から 主のみ言葉を生きるものとなれますように。それは、恵みによって完成される 神の救いのみ業そのものに協力する生き方でもあるのです。