財産のある人が、救いを求めてイエスのもとに走り寄り尋ねています。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。彼は多くの財産を持っていました。しかし、最終的に残るものが、この世の財産でしかないならば、それは空しいことだということも分っていたのです。彼が求めていたのは、死においても失われないものでした。それは彼の人生をかけた切実な質問だったのです。イエスは、ユダヤ人であった彼に「あなたは掟を知っているはずだ」と言います。彼は即座に「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えます。彼は子供の時から、神の前に正しい者として生きようと努力してきたのですから、その言葉に偽りはないでしょう。イエスは、この人をしばらく見つめながら言われます。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。

この言葉を聞いて、彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。お金だけが彼の財産ではなかったからです。幼い頃から律法を守り、積み上げてきた善行。これもまた彼の財産だったのです。だから、悲しみながら立ち去らざるを得なかったのです。

何が問題となっているのでしょうか。そもそも、彼の問題は「永遠の命を受け継ぐために、何をすればよいか」と尋ねていることです。彼は、神の救い、永遠の命を、自分の力で得ることができると考えていました。それは大きな間違いです。神による人間の救い。それは、私たちが自分の力によって実現できることではない。そのことが分らなければ、私たちも同じように イエスの言葉に驚きながら、「それでは 誰が救われるだろうか。救われる者など誰もいないではないか…」と嘆くしかないのです。ここで言われている「財産のある者」…、それは お金の話しではありません。むしろ 人間の救いに関してまでも「自分で 出来る」と考えている 人間の思いです。それは、私たちが努力して何とかなることではなく、神にしか出来ない分野のことなのです。そこで 私たちがやるべきこと、それは、神にしかできない恵みを 恵みとして受け取ることです。神にしか出来ないこのことを神はどのようにして実現されたのでしょうか。

「神は全能」であるとイエスは言います。神はその全能さを どのようにして行使されかを見なければなりません。神は御子を十字架にかけました。それは人の思いを遙かに超えることでした。その御子の犠牲のゆえに、私たちは罪をゆるされ、神との交わりに入れて頂いているのです。復活したイエスよって私たちは、神の救い 永遠の命の交わりに入ることが約束されているのです。正義そのものである神が 罪人を救う…本来ならばあり得ないこの難問を、神は 人間が考えつかない方法で見事に乗り越えて下さいました。それは 神の愛から出た知恵です。「この神の愛に不可能なことはない。だから信頼しなさい」とイエスは強調しているのです。

 しかし、そのことが弟子たちを含めて私たちには分かりません。弟子たちは、未だに 自分たちがしてきたことを見て下さいとイエスに願っています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨てて あなたに従って参りました。 私たちの施しを、数々の善行を見て下さい。この私たちには、何が約束されているのでしょうか?」とペトロは聞いているのです。主は言われました。

「はっきり言っておく。わたしのため また福音のために全てを捨てた者は…、永遠の命を受ける」(30節)。

 ここで強調されていることは、「わたしのために また福音のために…捨てる」という言葉です。何かを期待して得ることではありません。イエスのゆえに、福音のゆえに、愛を持って捨てる生き方。そこに私たちの目を向けさせようとしているのです。イエスのため また福音のために何かを捨てる…、それは、神の愛に対する応答です。実際、彼らはイエス亡き後、やがて迫害の時代を生きることになります。弟子たちはまだそれに気付いていませんが、イエスはそのことを見通した上で語っておられます。後に彼らは、 神の愛への応答として、「イエスのために 福音のために」全てを捨てることになります。そして、命をかけて全世界へ出かけて行ったのです。まさに その生き方が永遠の命へとつながっていきます。

 何をするにしても、人間の思いが先にあるのではなく、先ず神の恵みを知って、その恵みへの応答として行われることが大切です。神のこの恵みを知ることがなければ、わずかな捧げ物さえも惜しむことになるでしょう。しかし、恵みへの応答として行われたことは、例え命を失っても惜しくはないのです。神の愛に生かされながら 福音のために 惜しげなく 自分自身を献げる自由な生き方と、イエスの言葉を聞いて、気を落とし悲しみながら立ち去る生き方の違いに福音の秘密があります。イエスは、立ち去っていくこの人を見つめながら「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言っています。このイエスの言葉を聞いた弟子たちが さらに驚いているのはなぜでしょうか。

イエスはこの言葉によって、財産のある人がそれを捨てて福音に生きることは困難だ、と言っているのではありません。自分が持っている何らかの財産によって永遠の命を得ようと考える 人間の思い違いを指摘しているのです。「持っているものを売り払い、貧しい人々に施し、そして私に従いなさい」とイエスがおっしゃったのはそういう意味です。この人は、周囲の人々からも信仰深い立派な人として見られていたでしょう。彼は自分の善い行いという財産を積み上げながら生きてきたのです。その彼が、自分の正しさ、信仰深さに磨きをかけるために、イエスのもとに来て、永遠の命を受け継ぐために さらに何をしたら良いかと尋ねているのです。その彼に対してイエスは、「あなたに欠けているものが一つある」と言います。それは、彼がこれまで守り、蓄えてきた財産を棄てることだったのです。それは、彼がこれまで理解してきた信仰のあり方を根本からひっくり返すことでした。逆に、イエスが難しいこと、困難なことを要求したのであれば、彼は喜んで一生懸命頑張ったことでしょう。しかし、これまで彼が積み上げてきた善行という財産を捨てることは、彼には出来ないことでした。それによって安心を得ようとしていたからです。かれにとっての救いとは、自分は正しい、立派に生きていると思って安心することなのです。しかしイエスは、信仰が そういう自己満足になってはいけないと語るのです。そのことが理解できなかったために彼はイエスのもとを去って行きます。

 イエスの言葉には、私たちも度々驚かされます。イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とも言います。私たちが自分の正しさ、立派さ、蓄えているものに依存しながら救いに与ろうとすることは、らくだが針の穴を通るような 不可能なことだというのです。神の全能の力がなければ、この限界を乗り越えることはできません。これは、イエスにおいて実現した神の子の死と復活、そして約束された救いのみ業全体と関係していることです。「これは 人間にできることではないが、神にはできる」というイエスの言葉は このことを語っています。

神の力によってのみ、それが実現するとイエスはおっしゃいます。しかしペトロは、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と、自分たちの実績を強調する発言をしています。イエスは、このペトロの発言にも寄り添いながら「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と語ります。

様々なものを捨ててイエスに従った者の報いについて語るこの言葉と、人間の力によって救いを得ることはできない、というイエスの言葉はどう結びつくのでしょうか。矛盾しているように思われるこの言葉は、実は深く結びついています。自分が地上に積み上げているものを全部抱えたままでイエスの弟子となることはできません。弟子たちは、それまでの生活を捨ててイエスに従ったのです。イエスはあの金持ちの男にも、「わたしに従いなさい」とおっしゃいました。それは決して、一切を捨ててイエスの弟子になるという立派な行いをすれば、見返りとして救いが得られる、という意味ではありません。神の全能の力による救いは、私たちがその恵みに身を委ねて生きるところから始まります。そういう意味でペトロが「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っていることには意味があります。

 「わたしのため また福音のために」とは、イエスによって神が与えて下さる救いの恵みを受けて生きるために、ということです。そのためにこの世の何かを捨てることによって 貧しくなることはありません。神は私たちのこの世の人生を、さらに豊かに導いて下さるのです。神の恵みに身を委ねて生きることによって、私たちのこの世の生活は貧しくなっていくのではありません。むしろ大きく広がっていくのです。私たちは世捨て人になるのではなくて、この世における人間関係を より豊かに生きる恵みを与えられているのです。この世の生活では、様々な軋轢が生じ 苦しみを受けることも多々あります。しかし、この世の歩みだけが私たちの人生ではありません。復活したイエスと共に生きる私たちは、希望のうちに歩み続けるよう招かれているのです。私たちの救いは、イエス・キリストの十字架と復活において示された神の愛によって与えられます。この神に信頼して委ねて生きるなら、私たちは 何百倍も豊かな人生が約束されているのです。