今日の福音は、イエスが「律法学者を非難する」話し(12章38~)と、「やもめの献金」を(12章41~)を伝えています。両者は、全く別の出来事を語っているようにも思えますが この二つには繋がりがあるように思えます。

イエスが語っている相手は、イエスの話を聞きに集まった群衆です。この人々に向かってイエスは、「あなた達も、律法学者たちと同じようになってしまわないように気をつけなさい」と警告しているのです。律法学者のどこに注意するように促しているのでしょうか。律法学者たちが求めていたことは、人々から尊敬されること、上座に着くこと、また自分の名声を高めることなどでした。彼らが着る「長い衣」というのは、律法を教える教師であることを示す権威の衣です。「上席」「上座」というのは、最も上にある席のことです。そういうこと自体が悪と決めつけて非難しているのではなく、彼らが それらのことを 自分の栄誉のために用いていることをイエスは非難しているのです。彼らだけでなく、あなたたちも 気をつけなければ同じ過ちに陥ると注意を促しているのです。

彼らは、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と言っています。「祈り」さえも彼らにとっては神との対話ではなく、人々に見せるためのものとなっていました。それは、表面的には苦しむ人に思いを寄せているかのように見えながら、実は 自分が高められることを求める「見せかけの祈り」に過ぎないと言っているのです。このように、彼らの行動の殆どは人の目が動機となっていました。自分がどう見られているかというような、まわりからの評判が彼らの最大の関心事でした。彼らは常に人と自分とを比較しながら、自分の方が上なら安心し、そうでなければ妬みや憎しみを抱いてしまうのです。

そのような状況の中、人の目や評価に全く左右されずに生きている一人の”やもめ”が登場するのです。彼女は、その日その日をやっと生きているやもめでした。神殿の賽銭箱に「レプトン銅貨二枚、すなわち1クァドランス」しか入れることが出来なかった貧しいやもめであったと書かれています。(1クァドランスは1デナリオンの64分の1。1デナリオンは労働者一日分の賃金)。やもめの献金がいかに小額だったかが分かります。これらの様子をじっと見ていたイエスは、弟子たちを呼んで言われます。

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。

貧しいやもめが献げたレプトン銅貨二枚の方が、金持ちたちの多額な献金よりも、神の前ではたくさんの献げものなのだ、と語っているのです。

 イエスがここで見つめているのは、このやもめが 自分の生活の全てを神に委ねて生きている姿です。彼女は、乏しい生活の中から 自分の生活の全てを捧げ、神の導きに信頼しています。そして、生活の中の余りではなく、自分にとって大切なものを神に献げているのです。私たちは、この箇所を文字通りの狭い意味で受け取ってしまってはいけません。イエスが伝えたかった大切な思いは何だったのでしょうか。それは、私たちが自分の力で自分を守り、信仰さえも自分の力で生きようとしている愚かさに気付いて欲しいということです。それは、信仰を生きる者としておかしいことではないか、ということなのです。

 あのやもめは、専門的な知識があったわけではありません。しかし、他と自分を比較する思いからは解放されていました。貧しい彼女は、周囲の冷たい視線にもかかわらず、僅かばかりの…しかし、今日一日の自分を支えるレプトン銅貨二枚を 心を込めて献げています。それは彼女が、神のまなざしの中で生きていることのしるしです。イエスのまなざしは、神を愛し、神の導きに全てを委ね、そして信頼して生きようとする彼女の心に向けられているのです。

 もちろん、地上に生きている私たちは、自分が置かれている状況や、これからどうやって生きていこうかと心配するのは当然であり、大切な事でもあります。そこには、優越感や劣等感、誇りと妬みが分ち難く入り乱れているのも事実です。そのような私たちをそこから救い出してくれるもの…、それが、私たちに向けられる神のまなざしなのです。イエスは、やもめがレプトン銅貨を神に献げる姿を見ておられました。そこには、慈しみと恵みとに満ちた まなざしがあります。その同じまなざしをもって、イエスは私たち一人一人の歩みを見ておられるのです。このイエスは、私たちのために十字架に死んで下さいました。イエスのまなざしは、私たちの信仰を評価するまなざしではなく、むしろ私たちの罪や弱さをご自分の苦しみと死によって償い、これを救いのみ業のために役立つものに変えて受け入れ、用いて下さるのです。

 律法学者たちの根本にあった思いは自分の栄光であり、信仰さえも、自分のために利用しようとする生き方でした。神の前に生きるはずの信仰が、いつしか人の目の前で生きるものになっていたのです。それは、現代の私たちも気をつけなければならないことです。

貧しいやもめは、神の眼差しの中で、神の思いに心を向けて生きていました。彼女の信仰は見せかけのものではありません。主なる神の眼差しが自分に向けられている…その喜びの中で彼女は、貧しくとも安心して生きているのです。

 「皆は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたのである」。ここでイエスの言う ”生活費”の意味…。 もうお分かりでしょう。 それは、自分の生活という生活費、すなわち「命そのもの」を主に献げるという姿勢です。そこに、生活の根拠、よりどころを神のもとに置くという、信仰の根本的なあり方があります。自分のために蓄えた有り余るものの中から、その一部分だけを献げるという生き方ではないのです。律法学者の考える思いは、信仰によって自分の持っている物をさらに増やし、安心して生きようとする歩みでした。それに対して貧しいやもめは、神の中に自分の命の根拠を見出し、生活のすべてを献げる歩みだったのです。イエスは、そのような信仰をやもめの姿の中に見ておられるのです。

この後、イエスはどこに向かうのでしょうか。十字架へと向かう歩みです。神の御子が世に来られたのは、その十字架上でご自分の命を献げるためでした。まさに主はそこで「ご自分の持っている物をすべて」「生活費の全て」を私たちのために献げて下さったのです。イエスは、私たちと違って 乏しい中から献げたのではありません。神の満ちあふれる豊かさの中から、しかも その一部ではなく全てを 私たちのために…。それが人となられた神の御子の地上における生涯でした。神が人となるということ、イエスが十字架の死において 自らを献げて死ぬとは、そういうことだったのです。主が、私たちのために今もご自身を献げて下さっている、その恵みの中で私たちは、不完全ながらも今日一日、自分自身を献げる新しい生き方を見出していくのです。

ミサの中で拝領する聖体は、このような私たちに注がれるイエスのまなざしを、体全体で受止める秘跡です。この神のまなざしの中に留まることによって、自分がどんなに小さな存在であろうとも、神の愛に支えられながら イエスと共に歩むことが可能となっていくのです。

カトリック教会において11月は、亡くなった方々とのつながりを特に思い起こす月です。亡くなった方々の祈りに支えられていることに感謝しながら、地上にある私たちもまた 彼らの永遠の安息を祈るのです。このようにして、イエスを通して実現している ”天上の教会と地上の教会”の交わりの神秘を 愛の観点から思い起こす恵みの時なのです。