人を人とも思わず傍若無人な裁判官とやもめの話しです。この裁判官は、「不正な裁判官」とも言われています。弱者の代表である貧しいやもめが裁判官に、「わたしを守ってください」と頼んでいるのです。しかし、彼はしばらくの間は取り合おうとしませんでした。やもめの主張が正しいことを知りながらも無視していたのです。自分には何の得にもならないからです。本来なら、そのような不正を裁くべき立場にある裁判官です。彼を裁くことができる者もこの町にはいませんから、彼に怖いものは何もありません。ですから、自分の損得だけを考えて生きています。貧しいやもめは今、神をも畏れず人を人とも思わないこの不正な裁判官の下に置かれています。イエスがこのたとえを語られたのは何のためでしょうか。それは、どんな状況にあろうと、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ということを教えるためでした。ともすれば、日常生活の中で希望を失ってしまう私たちのために、主はこのたとえを語っておられるのです。弱い者、貧しい者たちの正当な権利が守られるように…という弱者の訴えは、地上において無視され続けています。それでも私たちは、求め続けなければならないのです。現実がどんなに厳しくとも彼女は、神の正しい支配を求め続けています。

私たちの信仰生活も実は同じです。気を落とさずに祈り続けることができるのは、目に見える現実の背後に神がおられ、その神がこの地上を支配しておられる事を知っているからです。だから、現実に打ちのめされても希望を持って祈る事ができるのです。神の国の到来を待ち望んでいた人々にイエスは、「神の国は、あなたがたの間にある」と語りました。そして、ご自分がこの世に来られたことによって、すでに神の国は始まっているということを示されました。その神の国は、イエスの十字架と復活によって実現されるものです。キリスト者になるとは、イエスによって到来するこの神の国を信じることです。しかし、それは未だ 目に見える仕方では到来してはいません。それは、世の終わりにイエスがもう一度来られるときに完成されます。目に見える現実においては、私たちには何も分りません。その中で、未だ完成していない神の国を待ち望みながらイエスの言葉を生きるのです。イエスの言う「気を落とさずに、絶えず祈る生き方」を理解していなければ、その生き方は難しくなります。

私たちの祈りを聞いて下さる神の姿を「不正な裁判官」にたとえて語っておられるイエスに驚きます。イエスがここで語ろうとしていることは何でしょうか。それは、「神は私たちの祈りに応え、必ず神の国を完成して下さる方である」ということです。昼も夜も叫び求めている人たちのために、神は裁きを行わず、いつまでも放っておかれることがあろうか。そんなことは決してない。神は速やかに裁いてくださる。それを信じて、気を落とさずに、絶えず祈り続けなさい、とイエスは語っておられるのです。

 「しかし、人の子が もう一度来られる時、果たしてこの地上に本当の信仰を見いだすだろうか」というイエスの問いかけ…。この言葉は重要です。地上におけるキリスト者の祈りの意味を教えてくれています。キリスト者に与えられた祈りの意味と価値を知らなければなりません。イエスによって既に到来している神の国を信じ、未だ見ていない救いの完成を待ち望む人の姿。そこに、地上におけるキリスト者の存在の意味もあるのです。そのような信仰を生きる人々がいるからこそ、この地上の現実は清められ、神のみによって与えられる希望を生きることができるのです。この主との関わりを、今の現実の中で深めなければ、神の愛と赦しの深さに出会うことも出来ません。

「神の国の到来、完成のしるしをどこに見ればよいのか」という弟子たちの質問に対してイエスは、「あの貧しいやもめを見なさい」と語っています。私たちがこのやもめのように、神による救いの完成を信じて、人を人とも思わない力が支配しているこの世の現実の中にあっても、気を落とさず、祈り続けて歩む…、そういう信仰を生きる人のいる所に、神の国の完成を示すしるしがある、希望がある…、とイエスは語っているのです。そのような祈りこそが、厳しいこの世の現実の中にあって、神の国と神の約束の真実を証ししているのです。ですから、このたとえは 単に「祈り続けよ」という勧めではなく、イエスによって到来した神の国が、いつの日か完成することを待ち望みつつ生きることの大切さをも教えています。そこに、信仰の基本があるからです。

私たちがこの世の現実の中で、未だ見ていない神の国の完成を垣間見ることができるとすれば、気を落とさずに、絶えず祈る人の存在があるからです。神は、私たちの祈りに応えて、そのような人を必ず与えてくださいます。キリスト者とは、そのことを自覚して生きる者でなければなりません。救いの完成の時、イエスが来られるその時、そのような信仰を生きている者としてイエスに見出して頂けるならば、これ以上の喜びはないでしょう。罪を犯さずに生きれるとすれば、それは大きな恵みですが、それ以上に大切なことがあります。「神の赦しのうちに、イエスの心を 喜びをもって生きる」ということはもっと大きな恵みなのです。イエスは、今日も私たちに聞いておられます。「人の子が来るとき、果たして地上に、そのような信仰と祈りを見いだすことが出来るだろうか」と。イエスからくる信仰、希望、愛、それはいつも祈りとつながっています。人間が自力で造り出すことは決してできない神からの賜物だからです。ロザリオの月にあたって、教皇様と心を合わせながら、全教会のため聖母の取り次ぎを求めましょう。