イエス一行は、ガリラヤを離れてエルサレムへ向かおうとしています。今日の福音箇所の直前(32節)には次の言葉があります。

「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」

 十字架を待ち受けるイエスは、エルザレム目指して進んで行かれます。イエスに従いたいと望みながら私たちはいつの間にか、自分の思う救い主像を求め、いつの間にか自分が主人になって、イエスを自分の願い通りにしてしまう傾向があるのです。そのような時私たちは、イエスに従うどころか、イエスの前を歩いています。エルサレムに向かうイエスは、先頭を歩んでおられます。弟子たちは、ガリラヤに留まろうとしました。十字架を前にして人間は、誰も先頭には立てません。人間は常に、安全な「ガリラヤ」に留まろうとします。

 ガリラヤとはどのような場所でしょうか。ガリラヤでイエスは多くの御業を行われました。多くの病者を癒し、食べ物を与え、逆風でこぎ悩む弟子たちに近づき彼らを導いています。平安と喜びに満ちた人々の姿があります。待ち望んでいだ救い主と出会えた人々の喜びの声がこだましていたことでしょう。しかし、そこは、人間の思いが渦巻く場所でもありました。イエスに従っていながら、ガリラヤの人々が求めていたのは、自分の望む救いを実現する救い主でした。

 今日の福音箇所は、三回目の受難予告に続く箇所です。それを受けて、ヤコブとヨハネは、イエスが栄光を受ける時、自分たちの内一人を右に、もう一人を左に…と願っています。ヤコブとヨハネは、最初にイエスの弟子となった者たちでした。だから、イエスが栄光を受ける時、自分たちに特別な地位を与えてほしいと願ったのです。二人が思い描いていた栄光とは、この世の支配力や権力です。二人は、自分自身の望む救い主を求める心で、自らの栄光を求めていたのです。イエスの前を歩こうとする思いと、自分の栄光を求める思いは深く結びついています。そのような中で、僕として従っていながら、いつの間にか、自分が主人になってしまっているのです。それは、ヤコブとヨハネだけのことではありません。他の10人も同じです。

「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」。他の弟子たちの怒りは、彼らも同じことを考えていたことを示しています。心の中では、皆自分の栄光を求めています。イエスに従う信仰生活の中においてさえ私たちは、自分の栄光を求めていることがあるのです。

 弟子たちにしてみれば、イエスが異邦人に引き渡され、鞭打たれて殺される、などと言うことは決してあってはならないことです。その理解しがたいことが今起ろうとしているとイエスは語っています。人間が思い描く救い主の姿がここで見事に崩されています。

 異邦人たちから侮辱され十字架につけられるイエス。それは、人間の罪が最も鮮明に顕わになって表われる時です。それは、自らを主として歩もうとする人間が生み出す現実です。自らを主として歩む人間の罪の姿がここにあるのです。イエスはガリラヤを離れてエルサレムへと進まれます。世に下られたイエスは、ガリラヤに留まることなく、エルサレムへと赴かれます。真の神の子であるイエスは、罪と死の支配するこの世の只中へと赴かれるのです。もし、ガリラヤに留まり、驚くべき奇跡によって人々の願望を叶えるだけであったなら、弟子たちを恐れさせることもなく、苦しみにあうこともなかったでしょう。けれども、それは真の救い主ではありません。イエスは一人で、誰にもその意味を知られることもなく十字架への道を歩まれます。エルサレムで示されるイエスの姿は、私たちが思い描く救い主とはほど遠いものです。神のみこころと人間の思いの間には何と大きな隔たりがあることでしょう。イエスはその隔たりを越えて、真の神を十字架に付けて殺そうとする地上の只中に来られました。そこで神の救いのみわざが成し遂げられました。

 私たちは、自分の思いではなくこのイエスの思いに従わなければなりません。ガリラヤに留まって、イエスの前を歩もうとするのが私たち。しかし、そこに神のみこころはありません。十字架と復活の神秘を知らされた私たちは、主の後に従って、ガリラヤからエルサレムへと歩み出すのです。

 イエスはヤコブとヨハネに、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われました。「できます」と答えた彼らに、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けるようになる」と言われています。実際、弟子たちは、福音を生きることによって殺されるという苦しみを経験しています。イエスに従う時、私たちには苦しみが伴います。そこで、人間の抱く思いが崩されるからです。しかし、それがイエスの杯を飲むことであり、イエスに仕えることなのです。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人の僕となりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」。

 この世は真の神の子を求めていないように見えることがあります。人間は自らの栄光のみを求め、神に栄光を帰していないかに見えることがあります。私たちが歩みだすエルサレムは悪霊に支配された欲望が渦巻く争いの場でしかないように見えることがあります。地上の教会が形骸化した神なき神殿に見えることがあります。そのような時、私たちの歩む道の行き先に滅びとしての死しかないように思うのです。地上の現実が神のみこころに敵対し、私たち自身もそのような現実に流されているように見えるときでも、私たちは尚、先頭を進まれるイエスに従って歩み出すのです。その歩みを続けて行くことによって、イエスご自身の復活によって示された栄光に与る者とされるのです。イエスと共にエルサレムに向かう者に神はその先にある「イエスの復活の命に与る」という、真の栄光を示されます。イエスは、いつも私たちが進む道の先頭を歩んでおられます。真の意味で、この主と共に歩む者でありますように……。