ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登られたイエス。彼らの目の前でその姿が変わり、服は真っ白に輝きました。御変容のイエスの姿です。そこで、律法の代表者であるモーセと預言者の代表であるエリアがイエスと語り合っています。この二人が、旧約の代表としてイエスと語り合っていることに重要な意味があります。それは、旧約の歴史全体がイエスと繫がり、イエスに流れ込んできていることを示しています。このイエスを通してイスラエルの歴史は、新しい段階に入ろうとしているのです。 

 彼らがイエスと語り合ったことの内容について、ルカ福音書によればそれは、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期についてであったと書かれています。(ルカ9・31参照)それこそまさに、聖書全体が伝えようとしている中心テーマであり、イエス・キリストを通して実現される神の救いの源です。イエスが救い主である事の意味は、十字架の苦しみと死に関係なく現れることはありません。神の栄光は、十字架の死を通して現わされる神のみこころと深く繫がっているからです。

ペトロは、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」と叫んでいますが、実はまだ何も分ってはいません。自分が信じ従って来たイエスが、光り輝く栄光の姿で目の前におられる…。彼にとってそれは、この上ない喜びであったことでしょう。この出来事の一週間前にイエスは、これから受ける苦しみや死について弟子たちに話されました。その時のペトロの反応は、「そんなことを言ってはいけません。」と逆にイエスを諌めています。ここで、栄光に輝くイエスの姿を見た弟子たちは、このイエスについて来て良かったと心から思ったことでしょう。同時に、この時ペトロが考えたことは、「このイエスの栄光を、いつまでも取っておきたい……」ということでした。しかし、それは神の望みではありません。そこで聞かされた声は、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という御父の声だけでした。イエスこそ、御父の独り子であること。そして、「これに聞け」という命令。弟子たちが、急いで辺りを見回しましても、そこにはイエス一人しかおられません。しかも、そのイエスの姿は、もはや輝いてはおりません。このことは、何を意味しているのでしょうか。

それは、イエスが神の子として栄光を受ける方であることを示すと同時に、その栄光を私たちが自分の思いによって、自由に留めおくことのできるものではないということを示しています。神が私たちに望まれる信仰が、どういうものであるかがここに示されているのです。地上において、私たちが仰ぎ見るべきものは、苦しみを受け、十字架につけられた救い主イエスの姿です。その歩みの中で、あの弟子たちと同じように、栄光のイエスに出会わせて頂ける恵みもあるでしょう。それは、神のみこころによることです。しかし、イエスの栄光は、十字架の神秘と深く繫がっていることを忘れてはいけません。

試練の時、その試練を通して、イエスは私たちに希望を与えて下さいます。二千年の教会の歴史の中で、神はたくさんの人々に、この神秘を垣間見させて下さいました。彼らのその体験によって教会は、いつの時代でも強められ、導かれてきました。

 特に、主が教会に遺して下さった「聖体の秘跡」は、地上の教会に与えられた最も大きな神からの恵みです。ミサにおいて神の言葉が語られる時、そこで私たちはキリストに出会い、キリストの言葉を聞いています。そこに聖霊が働き、復活して共に生きておられるイエスを体で感じ取るよう招かれているのです。そこで、救い主イエスの恵みと輝きを示され、信仰のうちに歩む恵みを頂いています。しかし、それがどんなに大きな恵みであっても、どこかに確保しておくことはできません。栄光の主を、小さな人間の中に閉じ込めておくことは出来ないのです。主は、恵みによって、ご自分の栄光を相応しい時に現わして下さいます。地上においては隠された信仰の神秘。これを人間の思いだけで生きる事は出来ないところに、信仰が神からの恵みであることが示されています。私たちが望むべきことは、主が望まれる最も相応しい仕方でその栄光を仰ぎ見る者、悟る者、伝える者にならせて下さい、と祈ることです。

弟子たちが辺りを見回した時、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(8節)という言葉を思い起こしましょう。弟子たちが目をこらして見つめても、そこにおられるのは栄光に輝くイエスではなく、貧しいイエスの姿、十字架への道を進み行くイエスの姿です。このイエスに従っていくことが私たちの信仰です。「あなたの信仰がなくならないように、わたしは祈る」というイエスに出会い、このイエスの祈りに結ばれているからこそ、私たちの貧しい祈りにも価値があるのです。この主の愛のみが、すべてにおいて すべてとなりますように……。