イエスは、神の国の福音を宣べ伝えました。しかしそれは、神の国を実現するにはどうすればよいか、というマニュアルを教えたのではありません。イエスは、ご自分がこの世に来られたことによって神の国が実現しようとしているその事実を宣言なさったのです。それは、イエスの十字架の死と復活によって実現した出来事です。これによって、私たちは新しく生きることができるのです。それが、福音書の伝えようとしている内容です。聖書は、イエスの生涯、特にイエスの十字架の死と復活に焦点を当てながら、なぜそれが私たちにとって重要な意味を持つものであるかを説明しているのです。「福音を生きる」とは、イエスの教えを聞いてそれを人生の教訓にするとか、イエスに倣って生きる…、と言った程度の話しではありません。十字架の死と復活に至るイエス・キリストの全生涯によって示された救いの出来事の意味に、私たちの目が開かれていかなければなりません。それは、イエスを救い主と信じるだけでなく、復活して今も生きておられるイエス、共に生きておられるイエスとの出会いの体験でもあるのです。

洗者ヨハネは、イエスが現われる前に「荒れ野」において悔い改めを促しました。彼の言葉は人々の心に届きました。自分たちは神から選ばれた特別な民である、と自負して生きていたユダヤ人たちでしたが、彼らの心の奥深くには、満たされない思いと不安が隠されていたのです。その彼らの心にヨハネの言葉が届きました。誰よりも掟を守って、一生懸命生きていると自負していた彼らが、その時気付かされた恵みです。それは……、「神との良き交わりを失っている」という現実でした。ヨハネの語る「悔い改め」とは、単に悪い所を改め反省するという程度のことではありません。それは「神に立ち帰りなさい」という呼びかけです。私たちの存在全体に関わる事です。良いことを一生懸命しながら、神の思いに背き、神との親しい交わりを失って生きている現実…。先ずそのことに気付き、そこから、神の懐に立ち帰る生き方です。それが、本当の悔い改めであり、回心だと呼びかけているのです。

この時、ユダヤ人たちはローマ帝国の強大な力によって支配され、自分たちでは何もできない状態にありました。神の民としての誇りや自負を持っていたユダヤ人にとって、それはかなり厳しい生き方だったでしょう。将来に希望を見いだせないそのような状況にあったからこそ、彼らは洗礼者ヨハネの言葉に「特別な光」を見出したのかもしれません。もし、国が順調に繁栄し、異邦人に対して優越感を抱けるような状況だったら、こんなに多くの人々がヨハネのもとについて来ることもなかったと思われます。苦しみや悲しみ、そして思い通りにならない現実の中で、私たちは神の呼びかけに気付く者となるのです。今の私たちに本当に必要なものは何でしょうか。それこそ悔い改めであり、神による赦しではないでしょうか。ヨハネの語る悔い改めとは、神に立ち帰ることでした。どのように生きれば、神の心を生きる事ができるだろうかと頑張っている私たちです。しかし、その私たちの歩みが基本的に神に背を向けながらの歩みであるならば、進めば進むほど神から離れてしまう、という悪循環にも陥ってしまうのです。洗者ヨハネが勧めているように、神との関係において私たちに必要なのは反省ではなく回心なのです。神に向きを変えることです。方向を180度転換して、神の方へと歩み出すことです。それは場合によっては、自分のこれまでの歩みを否定されることになるかもしれません。先ず、神と出会うことなしには何も始まりません。ですから、イエスは「神の方に向き変わりなさい」と呼びかけておられるのです。神からの呼びかけをしっかりと聞き、神と向き合い、その神との関わりの中で信頼を深めることが何より大切だとイエスは語って下さいました。そこにおいて私たちは神の愛のこころに出会うのです。

 イエスの語る福音は、私たちが罪のない立派な人間になることではありません。私たちが、神に向きを変え、赦しを願う時、そこから新たな世界が始まる。そこからあなたの新しい人生が始まる、という促しです。私たちは、その恵みによって、神の赦しに与ります。そういう意味では、神は私たちをありのままに受け入れて下さっておられます。しかしそれは、私たちが神に向きを変えることにおいてこそ起る恵みなのです。洗者ヨハネが授けていた洗礼は、この悔い改めにおいて与えられる恵みのしるしです。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」という言葉はそういうことを語っています。神の恵みによる赦しが、私たちを神の方へと向きを変えさせ、立ち上がる力を与え、神との出会い交わりの世界へと私たちを招こうとしている……、この神から差し出される恵みの御手をヨハネは指し示しているのです。洗者ヨハネはこの時、自分の授けている洗礼が、来るべき救い主のための道を準備するものであることを自覚していました。来るべき救い主であるイエスの名による洗礼は「聖霊による洗礼」です。ヨハネは、そのための準備をしたに過ぎません。その来るべき救い主が、ヨハネのもとに来て洗礼を受けるとはどういうことでしょうか。ここにも深い意味があります。

イエスが洗礼を受けると天が裂け、「霊」が鳩のように降りました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえます。このことによって、イエスこそヨハネが予告した方であり、「聖霊で洗礼をお授けになる方」であることが御父によって示されました。なぜ、イエスがヨハネから洗礼を受けられたのか……。それは、私たちのためだったのです。イエスご自身がヨハネから洗礼を受けたその事実によって、新しい意味がそこに生じます。イエスが、十字架の死に至るまでの生涯を地上において歩まれ、復活されたことと無関係にこの神秘を語ることは出来ません。

 神の御子イエスご自身が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて下さいました。悔い改めて神に立ち帰ることによって罪を赦していただくべき私たち人間と同じ所に、神の独り子イエスが立って下さった。このことによって、イエスは神に背を向けて歩んでいる私たちの罪をご自分の身に引き受けて下さったのです。そしてその罪を償い、私たちに赦しを与えるために、十字架の苦しみと死への道を歩み始めます。イエスの洗礼は、その十字架の死への道の始まりだったのです。そして十字架につけられて死んだこのイエスを、父なる神は復活させ永遠の命を与えると共に、それを私たちにも与えることを約束して下さいました。イエスの洗礼、すなわち教会の洗礼は、イエスの十字架の死と復活によって実現した神の救いの計画の中に置かれています。ヨハネの洗礼とイエスの洗礼の大きな違いもそこにあります。イエスの洗礼、教会の洗礼を受けることにおいて私たちは、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の死と復活による救いを与えて下さった父なる神のもとへ立ち帰り、神に向きを変える力が与えられます。そして、イエスによって具体的に実現された救いの恵みに与り、イエスを通して与えられる新しい命を生きことができるのです。ですから、悔い改めは単なる反省ではないのです。神のみ心に出会った私たちが、その神のみ心と共に歩もうとする決断であり、方向転換なのです。そこには、聖霊の導きが不可欠です。聖体拝領の恵みによって私たちは、イエスが十字架にかかって血を流し、死んで下さったその恵みを味わいつつ、イエスの復活による新しい命に与り、希望のうちに歩むことができるのです。そこで私たちが見るべきものは人間の限界ではなく、この私たちとどこまでも関わり続けようとする神のみこころです。そのことを私たちは、弱い人間の集まりの中で体験しています。これもまた、神の計画の中の恵みの出来事です。