私たちの信仰は、イエスが私のところに来て下さるという恵みの体験を通して深められます。ヨハネは、自分のところへ来られるイエスを見ています。これは、私たち一人ひとりにも起っていることです。私に会いに来て下さるイエスに気付くことは大変重要なことです。「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことであるとヨハネは語っています。ヨハネの方がイエスより先に活動を始めているのに、イエスの方が自分より先におられた…とはどういう事でしょうか。その意味は、ヨハネ福音書の最初に書かれている言葉、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1・1)という事と関係があります。世の初めから存在し、天地創造に関わり、神である「言」(ことば)。その「言」が肉となって私たちの間に宿られた…、それがイエス・キリストです。イエスは世の初めから父なる神と共におられ、天地創造に関わっておられた方です。イエスはまことの神として誰よりも先におられた方です。このことを前提にしてヨハネは、自分の後から来られるイエスは、自分より先におられた方である。そして、この方はまことの神であられると証ししているのです。

 ここにも、私たちの信仰にとって大事なことが示されています。私たちは、自分で神を求め、その救いに与って、今を生きていると思いがちですが、実は私たちの思いよりも先に、イエスが先に働きかけ、私たちのうちで救いのみ業を行っておられるのです。そのことに気づくのが信仰です。自分がイエスを探し求めていたのではないのに、すでにイエスは自分のところに来ておられる…。イエスが先に働きかけ、与えて下さった恵みです。それまでの私たちは、この方を知りませんでした。だから、「わたしはこの方を知らなかった」とヨハネは繰り返し語っているのです(31節、33節)。

 もし、ヨハネがイエスを先に知っていて、それに基づいてこの方が救い主である証ししているのであれば、ヨハネの信仰や判断が先にあることになります。しかしそうではないのです。ヨハネは、イエスを知る前から救い主の証しをしているのです。なぜ、そんなことができるのでしょうか。それは、ヨハネが神から遣わされて、彼自身の判断や決心によることではなく、神のみこころによることだからです。その時点でのヨハネは、自分が誰のことを証しし、誰を指し示すために洗礼を授けているのかを知りませんでした。誰のことを指し示し、その方がどのような存在なのかが分らなくて、どうやって証しできるのでしょうか。しかし、まさにここに、イエスの証人となることの意味が示されているのです。そこにおいては、私たちの思いや理解よりも、神のみこころが先にあります。私たちは、イエスのことをしっかり理解し、分かった上でイエスの証人となるのではありません。もしそうなら、そこでは神のみこころよりも私たちの思いや決断が先にあり、私の思いがより重要なものとなります。真の信仰は、私たちの理解や決断から出発するのではありません。そこで先ず大切な事は「神の思い、みこころ」です。神が私たちを選び、語りかけ、召し出し、遣わして下さるところから全てが始まるのです。当然、そこで私たちは戸惑うでしょう。それでも、神の助けと促しに信頼して歩み出します。その歩みの中で、イエスの神秘が徐々に明らかにされていくのです。

 ヨハネは、聖霊が鳩のように天から降ってイエスの上に留まるのを見ました。他の福音書によれば、それはイエスがヨハネから洗礼を受けた時のことです。ヨハネのもとに洗礼を受けに来た多くの人々の中にイエスもおられたのです。自分が洗礼を授けたイエスの上に、聖霊が降り、留まるのを見たヨハネは、「この方こそ神の子である」と知ることができました。ここに、私たちの洗礼において起こっている事が示されています。私たちの信仰生活も全く同じことです。聖霊の働きによって、救い主キリストに出会わせて頂き、その方がわたしのところに来て下さることを体験しているのです。そこで、「あなたが私の救い主だったのですか」という事実に気づかせて頂くのです。それでも、私たちの信仰は未熟です。そのような私たちを主は導いておられます。ヨハネの証しの中心は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という事でした。神の小羊とは何を語っているのでしょうか。

 イザヤ53章(5節~7節)にはこう語られています。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった…」。屠り場に引かれていく小羊のことがここに語られています。この小羊は、「主のしもべ」の姿を示しています。彼は、見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。人々に軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている人。そして「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」と書かれています。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのため、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」のです。イザヤが預言した主の僕は、私たちの背きの罪、病や痛みの全てを背負って、私たちの代わりに、打ち砕かれ、懲らしめを受ける者です。それによって私たちが赦され、救われ、神と共に生きる者とされるのです。ヨハネがイエスを指して「神の小羊」と言っているのは、この方こそイザヤが預言した「苦難のしもべ」であるという意味です。私たちの罪を取り除き救うために、神ご自身が遣わして下さる主のしもべ、それがイエスです。この方は、世の始めからおられ、天地創造に関わっておられたまことの神である事が語られています。

 イエスが来られる時まで、ヨハネが授けていた洗礼は「悔い改めの印」でした。その洗礼を罪のない神の御子イエスがどうしてお受けになる必要があるのでしょうか。本来、罪のない神の御子イエスは、その意味では洗礼を受ける必要は全くないはずです。イエスが洗礼を受けられたのは、罪人である私たちと一つになり、私たちの罪をご自分の上に引き受けるためです。そのようにして、「世の罪を取り除く神の小羊」となって下さったのです。そのイエスに聖霊が降り、留まるのを見たヨハネは、父なる神がイエスを、世の罪を取り除く神の小羊として遣わして下さり、やがて十字架において死ぬことによって私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった、そのイエスによる救いが、教会を通して世の終わりまで人々に伝えられていく…、という神の隠された計画が明らかにされているのです。このイエスの存在があって初めて、「聖霊による洗礼の恵み」が現実のものとなるのです。

 私たちが洗礼を受けた時にも同じ事が起こっています。イエスの上に留まった同じ聖霊が私たちにも注がれ、私たちをイエスによる救いに与らせ、この方と共に歩む恵みが与えられるのです。この聖霊の働きによって初めて、私たちはイエスの証し人とされるのです。教会が一致してこのイエスを証し出来るよう、毎年1月18日~25日(キリスト教一致祈祷週間)まで全世界の教会と一致して祈るよう特に勧められています。