イスラエルの民がエジプトで、どれほど苦労したかは出エジプト記に書かれています。それは苦難の連続でした。待降節の中でこれを思い起こすことは意味のある事です。私たちが歩んでいるこの地上の歩みを、イエスもまた難民の一人として体験されました。 

「そのころ、洗礼者ヨハネが現われて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」(マタイ3・1~)

イザヤ(イザヤ40・3)が預言した「荒野で叫ぶ者の声」…、それは洗礼者ヨハネのことです。彼を通して私たちはイエス降誕の意味を学びます。洗礼者ヨハネは「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締めていた」と書かれています。列王記の預言者エリヤを思い出します。(列王記下1章8参照)「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」(マラキ書4・23~)。

 この洗礼者ヨハネこそ、旧約聖書で預言された「荒れ野で叫ぶ者の声」であるとマタイは言います。その目的は、「主の道を用意し、その道をまっすぐにすること」です。道のない荒れ野に道をつくる。その道を通りやすいようにまっすぐにするのは主が来られるからです。それが洗礼者ヨハネの使命でした。彼の第一声は、「悔い改めよ。天の国は近付いた」ということでした。人々を神と和解させ、天の国に導く使命です。興味深いのは、その使命をヨハネは荒れ野で果たしたという事です。なぜ荒れ野なのでしょうか。荒れ野は、救いが何であるかよく分る場所だからです。神はあえてヨハネを荒れ野に追いやりました。どんな人にも神の国が開かれていることを示すのに最も相応しい場所だからです。  

私たちも、この世という荒れ野にいます。この世の虐げられている人々の友となり隣人となるためです。ですから、私たちはいつも荒れ野に立たされているのです。そこで私たちが果たすべき役割があるのです。主の道を用意する目的は、人々を天の国に導くためです。それは、すべての人に開かれています。しかし、その道を通るためには悔い改めが必要です。今まで自分の思いや価値観で生きていた方向を、神に向け変える必要があるのです。

 罪の悔い改めはまずユダヤ人に向けて語られました。彼らには、アブラハムの子孫として異邦人にも神を証しする使命があったからです。イスラエル民族として、まず神と共に歩む生き方を始めることには大きな意味があります。その中のファリサイ派やサドカイ派の人々には、「われわれの父はアブラハムである」という誇りがありました。彼らに対してヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言っているのです。彼らが、神に選ばれた恵みとは正反対の驕り高ぶった生き方をしていたからです。悔い改めの実とは何でしょうか。

たくさんの人たちが洗礼者ヨハネのもとに訪れますが、「わたしはその方の履物をお脱がせする値打ちもない。」と言っています。これが悔い改めの実です。靴の紐を解くことは当時奴隷の仕事でした。イエスの前に自分は奴隷としての価値もないと言っているのです。自分に与えられた使命を忘れたなら、神はその辺に転がっている石ころからさえも、アブラハムの子孫を造り出す…と言っているのです。何のために、自分は今ここに置かれているのかということを忘れてはいけないと言うことです。

私たちもこの世の荒れ野に住む者です。神はその私たちのもとに来て下さいました。そして神の心を知る者になりなさい、という招きを頂いているのです。私たちの現実にイエス・キリストの燃えさかる愛熱の炎が投げ込まれたのです。大切なことは、このイエス・キリストの中に飛び込むことです。私たちの洗礼は「聖霊と火による洗礼」です。ヨハネの洗礼にはなかった大きな特徴です。その恵みを頂いた私たちは、かつてのヨハネのように、いま地上の荒れ野に遣わされているのです。それは、それぞれの置かれた場において神のいつくしみを伝える者となるためです。

エレミヤ書29章11節以下に次の言葉があります。「わたしはあなたがたのために計画を立てた。災いではなく、平和の計画。あなたがたの将来に希望を与える計画である。心を尽くしてわたしを探し求めなさい。そうすればあなたがたはわたしを見つける。」

日常生活には辛いこともたくさんあります。しかし、その辛い生活の中に神の目的があることを知るならそれは幸いな体験に変わります。神は計画を持って私たちと関わっておられるのです。残念ながら、それは私たちの目には見えません。それでも「大丈夫。安心しなさい。わたしは、あなたがたの将来に希望を与える計画を持って関わっている。安心しなさい。」とイエスは答えてくだいます。復活の主も、弟子たちの前でも同じ言葉を言われました。「あなたがたに平和があるように!」そうです。神の計画は、災いではなく平和です。それは将来に希望を与える平和です。今は見ることができなくても、その先にある希望です。しかも一時的な希望ではなく、永続する希望を与えるという約束です。ですから、主は言われます。「心を尽くしてわたしを探し求めよ。そこであなたがたは私を見つける」と。そのために、主はすでに働いておられます。「求めよ。そうすれば与えられる。捜せ。そうすれば見つかる。たたけ。そうすれば開かれる」のです。(マタイ7:7-8参照)

マグダラのマリアのように、すぐそばにおられるイエスに気づいていないことが私たちにはよくあります。マグダラのマリアにとって隣におられる主は、「園の番人が、主の遺体を持って行ってしまった」という解釈につながりました。最も喜ばしい知らせが、最も悲しい現実として受け止められたのです。それでも彼女は主を探し求めました。そこに救いがあります。どんな時にも、主を捜し求めるということは大変重要なことです。

私たちの目に見えてはいても、実は見えていないという事があるのです。復活の主に気付いたマグダラのマリアと弟子たちには共通点がありました。それは「見えない中で、主を探し求めていた」という事です。主を求めている者たちのみが、復活の主に出会います。目で見たなら認めることができると私たちには思えるかもしれません。しかし、求めていない人は見ても認めることがないのです。もしかしたら、今の現実は私たちが予想したような現実ではないかもしれません。そこで、主は働いておられるのです。それでも、信じる心をくださいと願い求めるのです。見えない中で主を捜し求める人の姿ほど美しく尊いものはありません。何と素晴らしい信仰の姿でしょうか。あなたの心にも主は訪れて下さいます。「わたしは必ずあなたを見つける」…これが主の約束だからです。