イエスがエルサレムへ向かうのは、天に上げられる時期が近づいているからでした。(9章51節参照)。イエスが十字架において死ぬ事は、私たちを新しい命に生かそうとする神の計画でした。その救いの完成に向かってイエスは、エルサレムへと向かっているのです。その途中「サマリアとガリラヤの間を通られた」と書かれていることには意味があります。サマリア人は、ユダヤ人たちからは軽蔑されている民でした。その対立の中をイエスは敢えて歩んでおられるのです。

 その途中、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、「イエスさま、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいます。彼らは「汚れた者」と見なされ、人々に近付くことも禁じられ、宿営の外に住まなければなりませんでした。そして「わたしは汚れた者です。汚れた者がここにいます。近寄らないでください」と声を上げながら、注意喚起しなければなりませんでした。人間の尊厳さえも奪われ、病気以上の堪え難い苦しみを負わされていたのです。このような悲惨な状況にある人々が、イエスを出迎えています。彼らは、遠くに立ち止まったまま、声を張り上げて叫んでいます。直ぐにでもイエスのもとに飛んで行きたかったでしょう。しかし、彼らにそれは許されません。遠くから声を張り上げて叫ぶしかなかったのです。イエスは彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃっています。その途中で、彼らは癒されます。この出来事を読みながら、いろんな事が想像されます。「助けて欲しい」と叫ぶこの人々を、イエスはどのような思いで見ていたのでしょうか。

 この病気になった人たちは、祭司によって回復したことが証明されなければ社会復帰することができません。その祭司の所へ行く途中、彼らは癒しを体験しています。大切なことは、その後です。彼らが、祭司の所へ向かう時点においては、まだ癒しは起っていません。癒されたという実感もなかったでしょう。ただイエスの言葉を信じて、イエスに言われたとおり祭司のもとへ向かっています。なんという素晴らしい信仰でしょう。彼らは、まだ起っていない癒しの恵みを信じて歩み出しています。その中で彼らに起った癒しです。ここに、信仰の神秘が示されています。信仰を生きるとは、まだ実現されていない約束を信じて歩み出すことなのです。自分の望んでいる救いが与えられてから、あるいはその救いを実感することができて初めて信じる というのではありません。先ず、イエスの約束の言葉を信じて、目に見える現実や実感がなくても、その闇の中から歩み出すのです。自分の実感や目に見える事柄よりも、イエスの言葉に信頼をおいて歩み出す…。それが信仰の決断なのです。

 癒やされた10人は、私たちが模範とすべき人々です。その中の一人の姿は、大変印象的です。彼は、自分が癒やされたのを知って、神を賛美しながらイエスの元に一人で戻っています。そして、イエスの足もとにひれ伏し感謝しています。この人はサマリア人でした。イエスは彼に聞いています。「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

イエスはこのサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃっています。癒されたのは十人でも、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのは、このサマリア人ひとりだけでした。「癒されること」と「救われること」は同じではないのです。十人全員が癒されましたが、救われることの本当の意味が分ったのは正統なユダヤ人たちではなく、人々から嫌われていたサマリア人ひとりだったという話しなのです。

ここから私たちは何を学ぶでしょうか。様々な問題を抱えて、多くの人々がイエスのもとに来ます。その悩みや苦しみの中で、神の言葉を聞き、イエスを信じて歩み出します。もしかしたら、苦しみや悲しみからの解放があるかも知れません。しかし、そこに私たちの目標があるのではありません。イエスが指し示しておられるのはその先です。抱えている問題や苦しみがなくなることが救いと思い込んではいないでしょうか。苦しみや悲しみの真っ只中にありながらも、イエスに出会った人はそこで救いを体験するのです。その救いとは…。それを得るために何が必要なのでしょうか。そのことを、あのサマリア人が教えているのです。彼は自分が癒されたことを知って、神を賛美しながらイエスの元に戻って来ました。そして、足元にひれ伏して感謝しています。このサマリア人にイエスは、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃっているのです。他の九人には見られない信仰がそこにあるからです。

苦しみや悲しみを抱えてイエスのもとに行きながら、そこで神に出会い 神の心に触れる恵みを頂きながら、一番大切なことを忘れたら、私たちの信仰は単なる御利益信仰になってしまいます。サマリア人にあって、他の九人にはなかったもの、それはあらゆる体験に感謝する心です。イエスに言われたとおり十人とも、祭司のもとに向かいました。人々から差別され続けていた彼らが、以前のように人々の間で生きていけるとすれば、それは言葉にならない大きな恵みです。その時、あのサマリア人は途中で、イエスの元に引き返し感謝の言葉を捧げています。そうせざるを得なかったのです。彼は、何よりも先ず、イエスのもとに来て、神を賛美することを最優先しました。あれ程望んでいた社会復帰を前にして彼はイエスの元に引き返しました。そこに他の九人との大きな違いがあります。

私たちの信仰の歩みは、何を最優先している歩みでしょうか。イエスが言われた言葉、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞く者でありますように…。イエスは、私たちの中にどんな素晴らしい信仰があると言われるのでしょうか。

私たちの信仰は、自分の思いで先に進むのではありません。分っても分らなくても、イエスに信頼して、イエスと共に歩む信仰です。そして、盲目的 御利益信仰にならないために、いつもこのイエスのもとに立ち返る必要があるのです。それが、私たちを救う信仰なのです。

神の側から見て優れた信仰とは、どんな不思議な体験をしたかではありません。また、どんな優れた働きをしたかでもなくて、イエスの足もとにひれ伏し、イエスとの交わりの中で、イエスの思いを最優先する信仰です。そこに感謝があり、救いがあります。イエスは今エルサレムを目指して歩んでいます。そのことにあのサマリア人は気付いて引き返しました。ユダヤ人たちから蔑まれていたあのサマリア人…。この人こそが、本当の信仰を知っていたのです。

 毎週日曜日ミサに与っている私たちです。そこで私たちは、「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけるイエスの言葉を聞いています。ミサから派遣され、ミサに戻って来る歩みの中で、聖体に支えられながら、今日もイエスの言葉を聞いているのです。「安心して行きなさい。あなたの信仰が、あなたを救った」と。イエスなしにはあり得ない恵み、人間の力を超えた神からの働き…。それをイエスは「あなたの信仰」と言ってくださっているのです。