「わたしどもの信仰を増してください。」 これは、弟子たちの切なる願いでした。彼らだけではありません。私たちの願いでもあるはずです。これに対するイエスの答えは次のとおりです。

 「もし、あなたがたに からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くだろう」。

 イエスのこの言葉を、私たちはどのように受け止めればよいのでしょうか。「からし種」とは、本当に小さなものです。手の平に乗せて吹くと、すぐにどこかに飛んで行ってしまうほど小さな存在です。イエスは、このからし種を用いて信仰の神秘を教えています。信仰は小さいとか、大きいとかの問題ではないのです。父なる神に、その愛を信じて、いかに自分を委ねて生きることが出来るかどうかの問題なのです。信仰は、私たちの常識や理解では信じることができない状況の中においてさえも委ねて生きる方法を教えます。その時、私たちの思いを超えたところで、あるがままの私たちを通して、神の計画が前進していくのです。そのことを体験するようあなたたちは召されている、とイエスは語っています。 

 イチジク桑の木。これは、地に深く根を張る木です。その桑の木に、からし種程度の小さな信仰をもって命じても、あなたたちの言うことを聞くであろう、とイエスは語っています。どういう事でしょうか。

 イエスの思い…。それは、「たとえあなたの信仰が、吹けば飛ぶようなからし種のように小さな信仰であろうとも、その小さな信仰を通して 神から委ねられた使命を生きること、そこに神の望みと計画がある」ということです。私たちは、信仰が大きければ大きいほど恵みも大きいと思ってしまいがちですが、誤解してはいけません。イエスが私たちに示された信仰は、からし種の信仰なのです。からし種一粒の信仰。そこに神の秘密、信仰の秘密があるのです。それで十分なのです。

 思い巡らせば 思い巡らすほど信仰は神秘です。神から与えられた賜物であり、恵みそのものです。自分の努力や学習によって、信仰が身につくというものではありません。そもそも 大きいとか小さいという言葉で、神からの賜物を量ること自体、初めから間違っているのです。神からの賜物は、たとえ目に見えない小さなものであっても、不可能と思える地上の現実を一瞬にして変える力を持っています。どのような状況においても、からし種の信仰をもって受け止めることが大切なのです。そうするなら、不可能と思えていたことが、いつの間にか解決されている現実に気付かされます。思い通りに状況が変化しなくても心配することはありません。人智を越えた神の計らいを信じて、諦めずに、イエスと共に歩もうではないか…、という神自身からの呼びかけなのです。そのことをイエスは語っているのです。

 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7・7-8)

 マタイ福音書において語られている言葉です。大切なことは、諦めずに、求め続け、たたき続け、捜し続けることです。

 信仰の父と呼ばれるアブラハムも、神からの示しを受けたとき、何も分らないまま故郷を旅立ち、神の示す方向へ向かって歩み出しました。その生涯は、決して順調に導かれたものではありません。しかし彼は、うまく行かなくなった時にも、その都度 神の名を呼び求めました。信仰は一度、信じたからそれで良いというものではないのです。予期せぬ問題や逆境に立たされながらも、その度に 主の名を呼ぶのです。その体験の積み重ねの中で、神との交わりや関わりを学びます。祈りの大切さを学びます。それが信仰なのです。

 使徒たちも同じでした。彼らは、故郷を離れ、何もかも棄ててイエスに従ってきました。特別な才能があったわけでもありません。その使徒たちに、「あなたがたに、からし種一粒の信仰があるなら…」とイエスは語っています。信仰は自分の中にある能力や資格のようなものではありません。与えられるものです。自分の思いどおりになるものではありません。一人ひとりの上に働く神のみわざです。ですから、神により頼むことが必要なのです。からし種一粒の信仰さえあれば、あなたがたに不可能なことは何もない…、と主が言われた事は重要です。大切な事は、神のみ心が成し遂げられることを願い、そのために協力して生きたいと望む心です。その中で、全ての出来事を受け止めるのです。

 私たちの理解や常識を超えていても、私たちの思いを超えて今も導いておられる神に信頼して歩む…。それさえ分っていれば、不安の中にありながらも私たちは、落ち着いて現実を受け止め、たとえ不完全な信仰であろうとも安心して歩むことが出来るのです。こんな私たちを決して見捨てることなく、イエスはこれからも私たちの歩むべき道を照らしながら共に歩んでくださるとは…、なんと有り難いことでしょう。

 「父よ、あなたに ゆだねます。父よ、わたしを ゆだねます。」(寝る前の祈りより)