金持ちは、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。一方ラザロは、できものだらけの貧しい人であり、金持ちの門前に横たわっていました。そして「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだ」と思っていたほどです。しかし、それは実現しませんでした。金持ちの家の残飯にさえもありつけなかったのです。このたとえを通してイエスは何を伝えたかったのでしょうか。

ラザロという名前の意味は「神は助けたもう」です。しかし、皮肉にも このラザロに人からの助けはありませんでした。人からは、人間扱いさえもされなかったラザロの話しなのです。このラザロを助けなかた金持ちは名前で呼ばれていません。人間性を喪失しているからです。金持ちが名前で呼ばれない理由を考えると寂しい気持ちになります。

金持ちの門前に打ち捨てられたラザロ。金持ちはラザロの存在に気づいていました。門前で、ほんの少しのパンででも飢えを凌ぐことが出来たら…と期待していたラザロを彼は知っていました。しかし、食べ物を与えることはありませんでした。皮膚病によって人々からも忌み嫌われていたラザロはまもなく死にます。そして、天使たちが彼を迎え、天国へと導き入れます。

生きている間に、十分に食べることもできなかったラザロが、今は神の国でアブラハムと共に食事をしているとイエスは言います。ここに神の国の大逆転があるのです。金持ちがすべきことは何だったのでしょうか。金持ちに欠けていたものは何だったのでしょうか。そこが大切なところです。ラザロはいつも門前にいたのですから、関わるチャンスはいくらでもあったでしょう。しかし … …。

ここで求められていることは、与えられた賜物を神が望む方向で用いなさい、生きているうちに神を愛し、隣人を愛する生き方を始めなさい、ということです。なぜなら、生きている間にしか、生き方の方向転換はできないからです。限られた人生で、私たちに与えられた神から頂いた良いものをどのように用いるかは、全ての人に問われている課題でもあるからです。

 天使たちによってアブラハムのすぐそばに連れて行かれたラザロ…。アブラハムのそのすぐそばに、とは、神の救いに与る人々の宴席において最もよい席を与えられているということです。しかし、金持ちは陰府においてさいなまれ、もだえ苦しんでいます。この物語はラザロが良い行ないをして天国へ行ったと語っているのでありません。また、金持ちが罪を犯したから地獄に落ちたという話しでもありません。なぜ、この金持ちは炎の中で苦しむことになったのでしょうか。逆に、ラザロはなぜアブラハムのすぐそばに迎え入れられたのでしょうか。

アブラハムは言っています。「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に超えてくることもできない。」

金持ちが今苦しんでいるのは、貧しい人に手を差し伸べなかったからではなく、悔い改めに基づく愛が足りなかったからです。あの放蕩息子のように、自分のありのままの姿に気付いて 父の懐に立ち返る愛を知らなかったからです。悔い改めは、奇跡によって起るものではありません。私たちに語りかけておられる神のみ言葉に出会って、神の懐に触れることを通してなされるものです。本当に聞こうとする気持ちがなければ、奇跡に驚くことはあっても、神の心に出会う信仰は生まれません。奇跡が私たちを救うのではないのです。神は私たちに、本当の信仰がどこにあるかを教えておられます。

 神のもとで、恵みによって生かされることが私たちの本来のあり方です。その事に気付くとき、私たちはイエスから一つの問いかけを受けています。あなたのまわりにも、様々な苦しみを負っている人、悲しんでいる人がいるではないか、という問いかけです。

私たちは、自分に与えられた富をどのように受け止めているでしょうか。イエスの心に出会ったならば、富の受け止め方、用い方も変わってきます。その富は、互いの善益のために一人ひとりに預けられた神からの贈り物です。その富の用い方を 本来の姿に戻すことが悔い改めです。自分の持っている富に拠り頼んで、自分中心に生きることをやめ、神の恵みによって養われ生かされる 本来のあり方に目覚めなさいということです。それが福音を生きると言うことでしょう。全ての人に与えられている恵みを、目の前にいる貧しい人、助けを必要としている人、弱っている人々のために、ほんの少しでも痛みを伴いながら捧げるところに愛が生まれます。それを生きることができたなら、この世界は大きく変わることでしょう。それは、神の最終的な望みです。神は、今も諦めていません。私たちの小さな捧げものに、神の愛が加わることによって、それは神の大いなるみ業に変えられていくからです。主の十字架と復活をとおして示された神の愛が、私たちの最終目標です。神の愛のみが すべてにおいて すべてでありますように…。