今日の福音箇所の前の方で、祭司長や長老達がイエスに近付いて来て、「何の権威でこのようなことをしているのか、だれがその権威をあなたに与えたのか」(21章23節)とイエスに質問している箇所があります。この問いかけに対してイエスは、今日のたとえで答えています。
ある人に二人の息子がいた。息子たちは、ぶどう園に行って働く使命を父から与えられますが、二人の息子の答え方にも違いがあります。そこに、このたとえを語るイエスの意図もあります。兄は「いやです」と答えながら、後で考えなおして出かけます。しかし、弟は「承知しました」と答えながら出かけなかったという話しです。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」というイエスの質問に対して、祭司長たちは「兄の方です」と答えています。確かに、実際にぶどう園に出かけて父の望みに応えたのは兄であるとしても、どちらも完璧ではありません。兄は明らかに「いやです」と拒絶しています。弟の方は、上辺だけは父の言いつけを聞きましたが、実際には従っていないのです。この二人のうちに、全ての人間の姿が現わされています。私たちは、父なる神の思い、望みを生きているでしょうか。父から求められたとき、喜んで出かけて行くことこそが、福音を生きる上で最も大切なことなのです。
イエスは人間の本質を見抜いておられます。それは道徳や性格上の話しではなく、神と共に喜びを持って生きるよう招かれているにもかかわらず、私たちは神の思いよりも自分の思いを優先して生きている者であるということです。
父の望み…、それは私たちがぶどう園に行って、父と共に働くことでした。一旦拒否した兄息子の心を変えたものは何だったのでしょうか。それはこの兄が、神の思いに出会ったからです。私たちも同じです。福音に出会うきっかけは何であれ、もし、イエスとの出会いがなかったら本当の信仰は生まれません。このたとえを語っておられるイエスこそは、父である神の望みを完全に担われた方です。父は、イエスにぶどう園に行くよう求められました。この父の望みに従って、イエスは神のぶどう園である神の民のところに来られました。神の思いから遠く離れてしまっている私たちを、もう一度、神のぶどう園に招くためにです。
「この方は、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった方です。」(フィリピ2章6-8)
このイエスの従順によって、神の望みが実現しました。私たちに、真の命を与えようとされる神の切なる望みが、御子イエスによって成し遂げられたのです。イエスは、私たちが自力では辿り着くことのできないぶどう園への道を切り開いて下さいました。そして私たちが、神の御業の協力者として働くことを望んでおられます。そのために必要な道をイエスは切り開いてくださいました。イエスのもとに行くことによって、私たちは父なる神が望んでおられること示されます。それは、私たちが救われること、本当に幸いな者となることです。頑な思いを捨て、この神の思いを素直に受け止め、その愛の中に留まる。そして、神の独り子であるイエス・キリストと一つに結ばれるとき、私たちは憚ることなく、御子に結ばれた兄弟姉妹として、イエスと共に神を父と呼ぶことができるのです。
一番初めにお生まれになった神の御子イエス。この方に出会うとき、私たちの頑なな心も改められます。「子よ、あなたも今日、わたしと共に、ぶどう園へ行って働こうではないか」とイエスは今日も呼びかけておられます。
イエスは、すべての人を憐れむ神の愛を語りました。そのために、神であるにもかかわらず、身分を捨て、最も貧しく低い者となり、人々に捨てられる道をお選びになりました。このイエスからの呼びかけを聞いた私たちは、どこに立っているでしょうか。信仰を生きる上で大切なものを見失いがちな私たちに、イエスの言葉は特別な力を持って響いてきます。
「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」(31節)
信仰を生きようとする私たちにイエスが語る言葉です。自分の清さ、正しさ、立派さを求めて生きるところに信仰の目標があるのではありません。たとえ失敗の連続であっても、父なる神の望みをイエスと共に生きようとするところから見えてくる世界。それこそ私たちが最後に見なければならない大切なものなのです。
今日10月1日は、幼きイエスの聖テレジアの祝日ですが、主日と重なっているため典礼上はなくなります。しかし、幼きイエスの聖テレジアが教えてくれた生き方は、私たちに今でも本当の喜びがどこにあるかを指し示しています。