ここには、当時の厳しい労働環境があります。多くの労働者が、その日の働き場所を求めて集まって来ますが、そう簡単には見つけることができません。広場にいた人々は喜んでぶどう園に行きました。
ここに出てくる全ての人に主人は仕事を与え、ぶどう園に送っています。一時間しか働かなかった人にも同じように賃金を与えるというのは常識では考えられません。なぜ、この主人はそのようなことをしているのでしょうか。それは主人の憐れみのこころから出ている行動なのです。
労働時間が終わり、賃金の支払いが始まります。そこで支払われた賃金は、最初に来て十時間以上にも及ぶ労働をした者にも、最後に来て1時間しか働かなかった者にも、等しく1デナリオンの賃金でした。最初から働いた人々は、自分は最後に来た人々の十倍も働いたのだから、十デナリオンか、それに近い賃金をもらえると期待したでしょう。しかし、もらった賃金は彼らも1デナリオンでした。最初から来て働いた人々は、「最後に来たこの連中と一日中、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いにするとは…。」と不満を言っています。当然の事です。
しかし、主人は少しも動じる事なく答えています。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。あなたは、自分の分を受け取って帰りなさい」と。
このたとえは何を語っているのでしょうか。神は人間の心の底にあるものを見抜いておられます。ここに、神の憐れみの心の自由さが示されているのです。神は憐れみにおいても、恵みにおいても自由な方です。その自由さの中で私たちを心に留め、憐れんで下さっているのです。1デナリオンは、当時の労働者の1日分の賃金です。少なくとも1デナリオンの金銭がなければ生きていくことができません。そこには、働きたくても時間がなく、「最後の者」となった人もいたでしょう。その人々にも、主人は同じように支払ってやりたいと宣言なさっているのです。
私たちは、この譬えの中のどの人物に当てはまるでしょうか。大切なことは、神と自分との関係が示されているということです。私たち一人ひとりもまた、神のぶどう園に雇われている者です。広場に立っている私たちに神は声を掛け、神のぶどう園へと招いて下さいました。神のぶどう園に招かれるとは、信仰を持って生きるということです。
一日につき一デナリオンという報酬を求めて働くのです。一デナリオンとは、神の救いです。イエスに従い、神を信じて生きるとはそういうことなのです。一日の生活を支えるお金よりもさらにすばらしいこの報いを求めて、私たちはイエスに従い、神を信じて生きています。それが、ぶどう園の労働者の姿であり、神の恵みによって与えられるものです。そこでは、「後にいる者が先に、先にいる者が後に」ということも起ります。全ては神の自由なみ心による恵みです。自由なみ心によって、神は人間の常識を越えて、救いのみ業を行われます。それが最も顕著に現わされているのは、イエス・キリストの十字架の出来事です。全知全能の神は、私たちのために、最も小さき者、最後の者となってくださいました。この世の最も低いところに神の御子イエスは来られたのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)罪人に代わり、私たちの死を十字架の上で引き受けて下さいました。神の御子の死によって、死が滅ぼされるためです。神の愛の思いが、この十字架において示されています。この十字架の出来事こそ、私たちへの憐れみのみこころです。その十字架の苦しみと死によって私たちは赦され、神と親しく語り合う恵みまで頂いているのです。