「ぶどう園のたとえ」です。このたとえを通してイエスは私たちに何かを問いかけています。信仰の歩みというのは、私たちの方からイエスに問いかけることも大切ですが、イエスの方から私たちが問われているという意識も大切です。

イエスがここで問いかけている相手は、エルサレム神殿の祭司長や長老たちです。彼らはユダヤ人たちの指導者であり、エルサレムの神殿の責任を負っている人たちです。少し前の箇所で、イエスが神殿の境内に入られた時、そこで商売をしていた人々をイエスが追い出されたことがありました。(21章12以下参照)その時彼らはイエスに対して、「何の権威でこのようなことをするのか」と怒り問い詰めています。イスラエルの指導者たちは、イエスに敵意を持っていなくても、本気でイエスを殺そうと考えるようになります。そのような状況の中でイエスはこのたとえを語っておられるのです。

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」(33節)

彼らの生活において、ぶどう園は身近なものでした。そこで採れたぶどうは出荷するためのぶどうではなく、ぶどう酒を造るためのものです。いばらの茂みで垣を巡らし、動物や盗人が入れないようにしていました。「見張りやぐら」も、ぶどう畑を荒らす獣や泥棒を見張るためのものです。主人は、これらの設備を全て整えた上で、それを農夫たちに貸し旅に出ます。不穏な情勢の中で暮らすよりも、自分の土地を人に貸して別の土地で暮らし、そこから出てくる地代で生きる方がより安全であったからです。当時の人々なら誰でもよく知っているこのような状況を用いて、イエスはたとえを語っておられます。家の主人というのは、神を意味します。このぶどう園が何を意味しているのか、神がぶどう園を造られるとはどういう事なのかを考えながら読んでみたいと思います。

このたとえで明確に言われている事は、このぶどう園は主人が造ったということです。主人が、細心の注意を払いながらこのぶどう園を造ったのです。収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、主人は僕たちを農夫たちのところへ送りました。けれども、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前より多く送ったが農夫たちは同じ目に遭わせたのです。(34-36節)収穫の時期が近くなり、主人は自分の僕たちを派遣してその収穫を受け取ろうとしたところ、農夫たちは僕の一人を袋だたきにし、後の二人を殺してしまいます。それでも主人は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と思って自分の息子を送りました。けれども、農夫たちはその息子を見て「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしょう。」と話し合いました。そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出し、殺してしまったという話しです。主人は自分の息子なら尊重しれくれるだろうと考えて、息子をぶどう園へ送りましたが、跡取りを殺して相続財産を自分たちのものにしょうと考えた農夫はその息子まで殺してしまったのです。

「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」と、祭司長やファリサイ派の人々、エルサレム神殿の責任を負っているイスラエルの指導者たちに聞いています。彼らは答えています。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と。(40ー41節)

このたとえは、神とイスラエルの民とその指導者たちとの関係を表しています。主人が最初に送った僕たちとは、旧約聖書に出て来る預言者たちのことです。そして、主人が最後に遣わした息子とは、神の独り子イエス・キリストのことです。

「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。だから言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(42-43)

  ここには詩編118の言葉が引用されています。その意味は、建築をする際に捨てられた石が、実は家を建てる時になくてはならない大切な親石であるということです。それは、まさにイエス・キリストのことです。イエス・キリストの十字架は人間の罪に対する神の決定的な裁きです。この話を聞いたファリサイ派の人々は、イエスが自分たちのことを言っているという事に気付き怒ります。そして、イエスを捕らえて殺そうとしますが群衆を恐れています。指導者たちの怒りは、イエスを十字架にまで追い詰める力となっていきます。

 私たちは、何を土台として生きているでしょうか。このたとえを語られたイエスは、やがて十字架で殺されます。神の独り子が“エルサレムの都の外に放り出されて殺された”という事実を福音書は語っているのです。人々から放り出され、捨てられたこの石が、全てのものの土台となったという事です。これこそ、私たちの目には不思議な、主がなさったことなのです。

第1朗読(イザヤ書)は、神がどれ程私たちに期待しておられるかを語っています。主人は、並々ならぬ準備をして良き実りを待ち望んでいました。ここに出てくるぶどう畑とはイスラエルのことです。そして、ぶどう畑に並々ならぬ熱意を傾けて手入れをしておられるのは神ご自身です。なぜ、神はこんなにもイスラエルを愛されるのでしょうか?それは、美味しいぶどうが相応しく実るのを期待しているからです。この神の期待に対して、イスラエルはどのように応えたでしょうか。

「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」

この言葉は、神のイスラエルに対する残念な気持ちです。

「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに…、見よ、流血。神は正義を待ち望まれたのに…、見よ、人々の嘆き叫び。」

見かけは神の期待に沿って生きているように見せながら中味は違っていたのです。実際はそうでないのに、そうであるかのように見せかけること、そこが問題だったのです。イスラエルは、良い実を結ぶことができないものになっていました。

神から恵みを受けながら、その恵みを無駄にしていました。自分の力でどんなに頑張っても、神の期待に応えることも、相応しい実りを結ぶことができない者となっていたのです。神が私たちに期待していたのはそんな実りではありません。

私たちが守られているのは神の保護があったからです。その保護がなくなれば、滅びるままにしておかれます。神が刈り込みをしてくださるので私たちは安心して生活ができるのです。

このたとえは、ユダヤ人指導者たちに語られたたとえです。彼らはこれを聞いたとき、イザヤ5章を思い出したことでしょう。ここに出てくる農夫たちとは自分たちのことであり、しもべたちとは預言者たちのことであるということも分っていました。その内容は、主人が送った息子を農夫たちが殺し、財産を自分たちのものにしてしまうという話しですから、イエスの話を聞いた指導者たちは、いてもたってもいられない気持ちだったことでしょう。

「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」

ユダヤ人たちに与えられるはずの恵みを彼らが受け取らないので、神はその恵みを異邦人に与えると語っているのです。私たちが神の期待にそえるような実を結ぶには、御子イエス・キリストのことばに従って生きなければ意味がありません。イエスこそ、真のぶどうの木、私たちはその枝です。ぶどうの木であるイエスは私たちのために全てを引き受け死んでくださいました。その時、真のぶどうの木であるイエスという大木は切り取られました。しかし、そのイエスの切り口と私たちの切り口が繋ぎ合わされたのです。そのとき、イエスに通っていた神のいのちが私たちにも流れ込んで来ました。神の愛は命がけの愛です。十字架の苦しみをも恐れぬ神の愛を通して、真の愛が何であるかを学んでいるのです。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(第2朗読 フィリピ4・6)