システィーナ大聖堂の正面祭壇に、ミケランジェロが描いた有名な「最後の審判」の絵があります。中央の復活のキリストの姿には、痛ましい十字架の釘跡も見えます。ミケランジェロは、最後の審判者としてのキリストの姿の中に、十字架の傷跡をも描きました。

イエスが、終わりの時について話されるのは、私たちが頂いている命の恵みを知ってもらいたいためです。「あなた方は、この祝福を受け継ぐ者となるためにこそ、神からの命を頂いているのだ」と教えてくれているのです。イエスによる赦し、聖霊の恵みを頂く者にとって、この世の旅路を終え、主の御前に立つことはむしろ最大の喜びなのです。ミケランジェロは、その時の喜びを描きました。

イエスは、天の国に迎え入れられた人たちに言われます。「あなた方が、わたしの兄弟である、最も小さな者のひとりにした愛の行い。…それは、わたしにしたことでる」と。しかし、当の本人たちにはその記憶がありません。イエスは、愛の行いを、天の国に入るための条件とはされませんでした。それは、イエス・キリストの十字架の贖いにかかっていることです。ここでイエスが伝えたかったことは、神の愛が何であるのか、イエスを信じ、救いに与る者たちの存在を通して、神の愛がどのように伝えられていくかという事です。それは、日常の何気ない一つひとつの行いを通して現わされます。イエスが言われたのは、日常の小さな愛の行いです。しかも、給仕する者、仕える者としての生き方です。私たちは、そのために召されています。日常の単調な歩みにおいて、誰にも気付かれないその小さな愛の行いこそが、大きな力を持っているからです。

イエスは、これをエルサレムに入る直前に語られました。この後、最後の晩餐の席において、弟子たちの足を洗われます。そして、その最後の晩餐の席で聖体の秘跡を定められました。その後の弟子たちは、どれくらい成長したのでしょうか。残念ながら……、それにもかかわらず、弟子たちの姿は依然と変わっていません。彼らがそこで語り合っていたことは、「自分たちの中で、誰が一番偉いか」ということでした。私たち人間にとって、仕えることの難しさ、イエスの思いを生きることの難しさを考えずにはいられません。

しかし、その弟子たちが、十字架にかかり死に、そして復活されたイエス・キリストと出会う時、さらに聖霊の働きを体験することを通して、彼らは初めて変わりました。本当に「仕える者」となっていくのです。これは驚き以外の何者でもありません。初め彼らは、自分たちの決意や努力だけでは福音を生きる事は出来ない、ということにも気づいていませんでした。何年にも渡って、イエスご自身から直接教えを受けた弟子たちであってもそうだったのです。しかし、十字架、復活、聖霊降臨の体験の後、彼らの魂は砕かれていったのです。

 

私たちの近くに置かれている隣人は、イエスが私たちに委ねられた人々です。私たち自身、自らの愛の足りなさ、痛みを経験しながら、また、たくさんの失敗を重ねながら生きているからこそ、そこに本当の信仰が生まれるのです。聖霊の助けに支えられながら、小さな愛の行いに導かれながら、イエスと共に歩むことが大切です。愛に満たされた一つのことば、一つの沈黙、小さな歩み……。それらを大切にしながら……イエスご自身を運ぶ者とならせて頂きましょう。

イエスはこの世に来られた時、神の身分であられながら、神の栄光を捨ててへりくだり、人間と同じ者になられました。しかし、世の終わりに再び来られる時は違います。その時は、神の栄光を帯びて、天使たちを従えてイエスは来られます。その時、「王であるキリスト」は、右側の人たちに、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたたちのために用意されている神の国を受け継ぎなさい」と言われます。それは、イエスのためになされた愛の行いによることです。その時、正しい者とされた人たちは答えます。「主よ、いつ、私たちは、そのようなことを行いましたか。」と戸惑っています。

イエスはここで、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない事を教えています。大切なことは、私たちが聖霊の恵みと助けを受けながら、神の御心を生きようとしているかどうかなのです。イエスは、「施しをする場合、あなたの右手のしていることを左手に知らせるな、それは、あなたのする施しが隠れているためである。」と言われました。また、「私は、ふつつかなしもべ。すべきことをしたに過ぎません。」と言いなさいとも教えられました。キリスト者とは、その限界ある自分を知っている者たちの事です。自分の努力や力によって救いを達成するのではなく、神の愛と助けに信頼して歩むのがキリスト者の姿だからです。愛の行いも聖霊の助けがあって初めて可能となります。それは、自分の誇りではありません。自分を通してキリストご自身がなさる恵みそのものです。

 

第2朗読、1コリ15・20以下でパウロが説明しているように、死の現実は私たちを悲しませ、苦しみをもたらします。しかし、キリストの復活によって私たちの死は滅ぼされました。それまでは、私たち人間だけでなく「被造物全体も今に至るまで、ともにうめき、ともに苦しんでいました。」(ローマ8:22) しかし、キリストの復活によって、すべてが変わりました。私たちがこうして、主日のミサに与ることが出来るのもイエスの復活があるからです。そこに、神が造られた地球の将来に対する「救いの完成の約束」も集約されているのです。今日の「王であるキリスト」の主日をもってA年が終り、来週から主の降誕を待ち望む待降節(B年)が始まります。神の愛のみに信頼して歩む者でありますように。