復活したエスは、再び来られることを約束して弟子たちのもとを去りました。主が再び来られるとき、それが私たちの救いの完成のときです。その約束が与えられて、もう二千年も経過しています。しかし、いつになったらイエスは来られるのでしょうか。今日の福音によって示されている内容はまさにその事です。いつの間にかイエスの約束を忘れて眠り込んでしまう私たちの現実を予測して、イエスはこのたとえを語って下さったのです。

花婿を待っている人々の中に、愚かなおとめと賢いおとめがいる…、その違いはどこにあるのでしょうか。「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた」。そうです。予備の油を準備していたかどうかが大切なのです。花婿の到着が遅れ、皆が眠り込んでしまっている間に火は消えてしまいます。そして花婿の到着が告げられた時、賢いおとめたちは予備の油によってともし火を灯して迎えることができましたが、愚かなおとめたちは油を買いに店に行っている間に花婿は到着し戸は閉められました。このたとえは、イエスの再臨を待つ私たちの信仰と関係しています。私たちが用意しておくべき予備の油とは何なのでしょうか。

花婿がいつ到着するか、分らない中で目覚めて待つ。それが私たちに求められている信仰です。しかし、私たちはイエスの約束を信じつつも、いつの間にか眠り込んでしまう者です。そこで、信仰のともし火も消えてしまうことが起るのです。いつしか信仰そのものまで失われてしまいます。

イエスのこのたとえは、私たちが眠り込んでしまう者であることを前提に語られています。たとえ眠り込んでしまったとしてもそれでお終いではありません。だとすれば、私たちが用意周到に、自分に欠けがないように、いつも目覚めて万全の体制を取っていれば幸いなのでしょうか。イエスの言いたいことはそういうことでもありません。賢いおとめたちも、私たちと同じように、弱い者であり、眠り込んでしまう者、待っていることができない者たちでした。しかし、彼女たちは予備の油を持っていました。たとえ不完全な信仰しか持っていない私たちであっても、その予備の油さえあれば、私たちはイエスとの出会いに導かれます。私たちにとって大切のものはその予備の油なのです。

イエスを信じ、イエスに希望を置き、神と隣人を愛して生きる、祈りを生きる、これらすべては非常に大切なことですが、私たちはこれらすべてにおいて眠り込んでしまう者であることをイエスは誰よりも知っています。

イエスが語る「予備の油」は、私たちが大切なところで眠り込んでしまっていても、信仰、希望、愛を生きることができなくなっても、たとえ祈れなくなっても…、それでも私たちの信仰を養い、キリスト者として生かしてくれる油です。それは、私たちが自分で造り出せる何かではありません。自分の努力や決意によって維持できるものでもありません。

それでもなお、私たちがイエスを喜び迎えることができるとすれば、それは、イエス・キリストご自身による恵みでしかありません。私たちが元々自分の中に持っている何らかではなく、イエス・キリストによる恵みこそが、「予備の油」なのです。予備の油があるという事は、イエス・キリストによる救いの恵みを知って、それに依り頼んで生きる信仰あってのことです。

イエスは、その時のことを十字架の苦しみと死への歩みの中で語られました。目を覚まして待っていなさいということを、十字架の死への歩みの中で命じておられます。イエスの十字架の苦しみと死、それはイエスが私たちのために死んで下さったということです。このイエスの十字架の死によってこそ、私たちは再び来られるイエスを喜び迎えることができるのです。私たちがともし火を灯して、主の再臨を喜び迎えることができるのは、私たちが賢い者だからではありません。相応しい立派な信仰を持っているからでもありません。洗礼を受けた時の感動や新鮮な思いを、いつまでも持ち続けているからでもありません。これだけの恵みを頂きながらも、私たちは弱い者であり、すぐに眠り込んでしまう者です。けれども、イエス・キリストによる恵み(予備の油)によってこそ、私たちはイエスを喜び迎える者となれるのです。賢いおとめたちはともし火と一緒に、この喜びの油を持っていました。

この油は自分の所有物として、自分の中にしまっておけるようなものではありません。この油を持っているかいないかは、イエス・キリストの十字架による赦しの恵みを信じているかいないかということだからです。それは、私たちの心が喜びに溢れ、洗礼を受けた時の感動を忘れないで頑張っているというような問題でもありません。信仰においても、希望においても、愛においても、私たちは眠り込んでしまう者です。それでも、それらに打ち勝って余りあるイエスの十字架と復活から注がれる恵みの油、それが予備の油なのです。

この油は、人に分けてあげられるものではありません。一人ひとりが、自分の信仰の中で見出していかなければなりません。イエスの十字架が自分のためであり、罪の赦しの恵みがそこに働くことを受け入れるかどうかが問われているからです。それを受け入れるならば、どのような罪深い者も、弱い者も、私たちの救いの完成である世の終わりを喜んで待ち望みつつ生きることができるのです。

「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。賢いおとめたちであっても目を覚ましていることは出来ませんでした。本当の意味で目を覚ましているとは、自分の罪や弱さにもかかわらず、このイエスの十字架による救いの恵みを知り、イエスに信頼して、安心して憩う信仰です。それこそ目覚めた信仰なのです。