返すことのできない多額の借金を追っている家来のたとえです。これを通してイエスは、ゆるしが何であるか、どのようにして私たちがこのゆるしを生きる事ができるか、ということを教えています。

家来は、王の前に平伏して「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願っていますが、彼に返済の当てがあるわけではありません。必死に願う家来の姿を見て王は憐れに思い、一万タラントンという膨大な借金を帳消しにします。一生かかっても返済できない借金を免除されたのです。家来の喜びはどれ程大きかった事でしょう。しかし、この家来は外に出て自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会って、彼の首を絞め「借金を返せ」と叫んでいます。その人は「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んでいますが、それでも彼は赦さず、監獄に放り込んでしまいます。それを見た仲間が王に事の次第を告げると、王は彼を呼びつけ、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言っています。この家来の姿は、私たちの姿と重なります。

イエスは、私たち自身が既に赦された者であることを自覚しなさいと言っておられます。一万タラントンという莫大な負債を、自分の力では到底返すことのできない借金を私たちは赦されているのです。これ程大きな負債を赦された私たちが、自分に百デナリオンの借金のある仲間を赦すのは当然のことではないかと言っているのです。私たちが人の罪を赦すのは、自分の罪が既に赦されているからなのです。自分に与えられている赦しの恵みがあるから、それに応えて赦すのです。

ペトロは、大きな決意を持って「七回までですか?」と聞いています。「七回までも赦すことができる寛容な者になりたい」と決心した事でしょう。しかし、イエスは七の七十倍までも赦しなさいと言われるのです。それは、人間の決意や努力によって出来ることではないということです。ペトロの赦しと、イエスの七の七十倍までの赦しの違いがここにあります。ペトロの赦しは自分の努力や決意によってなされるもの、人間の努力でなされる話しです。しかし、イエスは神の赦しの恵みに応えて生きるところから本当の赦しが生まれると語っておられるのです。

 一万タラントンの莫大な借金を赦してもらった家来。それは私たちの姿です。その事が分かっていないで、一生懸命努力しても所詮人間の業でしかありません。できるだけ赦そうと努力しながら、結局憎しみの思いに満たされてしまいます。私たちは日々、罪を重ねて生きている者です。私たちが日々神に対して犯している罪は、一万タラントンという大きなものです。これを自力で帳消しにすることはできません。

 この私たちの一万タラントンという借金を、神は赦して下さっているのです。それが、イエス・キリストの十字架で起こった事です。神が、その負債を帳消しにするということは、神ご自身がこの損失を引き受けるという事です。しかも、神ご自身が痛みを味わいながら、血を流しながら、苦痛の叫びをあげながら…。本来は私たちが引き受けなければならないこの痛み、苦しみをイエスは引き受け、十字架にかかって下さいました。それは父なる神が、かけがえのない独り子の命を犠牲にして私たちを赦して下さった、救いを与えて下さったということです。一万タラントンの赦しは、神が私たちのために痛み苦しみを引き受けることによって実現する赦しです。イエスの十字架の苦しみと死によって赦された私たちです。その私たちは、兄弟の百デナリオンさえ赦すことができないでいます。それが人間の現実の姿です。

 神が先ず、私たちを赦して下さっている恵みから出発しましょう。その恵みの中で私たちは、神の望みと赦しを生きる力を願います。特別に努力して、寛容な人間になれ、と言われているのではありません。赦されて生きている者だから赦すのです。そこに、七の七十倍までの赦しが実現していきます。もし、イエスの十字架がなかったら、地上においては決して見る事のできない赦しの世界を私たちは体験させて頂いているのです。私たちへの愛のために、ご自分の命まで差し出し、痛む者、血を流す者、そして死ぬ者となられた神。この神の心に触れるところから全てが始まります。イエスは神だから、十字架の苦しみさえ、いとも簡単に乗り越えられたのではありません。十字架を前にして、イエスも恐怖心を覚え、その恐れの中で「父よ、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」という叫びをあげながら死んでいかれました。ここまで、私たちと同じ者になられたイエス。ここに、本当の愛があります。それは、愛する者のために喜んで痛むまでの深い愛です。このイエスのうちにあって、失敗を重ねながらもその中で、本当の愛がどういうものであるかを学ぶのです。

 

「神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神の前にささげたい」
八木重吉