主イエスは復活し、父なる神と共に新しい命を生きておられる方であることを聖書は、「主の昇天」という言葉で表現しています。ルカが書いた福音書の最後と使徒言行録の初めは、この昇天という出来事でつながっています。そこでルカが見つめているものは何なのでしょうか。

 弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」(使徒言行録1・6)と尋ねています。救い主の到来によって外国の支配から解放される日を弟子たちは待ち侘びていました。復活されたイエスが、いよいよ私たちの王となられる…、と期待したことでしょう。

 イエスはこれに対して「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」と答えています。神の権威に基づいて行われる救いの出来事は、「いつ」「どのように…」と詮索するのではなく、信頼のうちに神に委ねて歩みなさいということです。イエスの復活は救いの実現において大変重要なものですが、それで終わりではありません。神の救いの業は、未だ継続しています。弟子たちは、これからも歩み続けていかなければなりません。しかし、イエスの道は、弟子たちが期待していた道とはかなり違うものでした。弟子たちはイエスの復活によって、イスラエルの国が目に見える仕方で確立され、イエスが王となって神の国が完成されると期待していました。しかし、イエスが示されたことは、イエスの福音を生きる共同体であって欲しいという事です。それが「教会」です。弟子たちの上に聖霊が降ることによって実現する教会です。イエスの復活によって実現するものは、かつての国の再興ではなくて、「教会の誕生」だったのです。弟子たちは、復活されたイエスが今後も 全てを整えて下さるものと期待していました。しかしイエスは、その使命を弟子たちに委ねたのです。

 イエスのこの望みによって教会が誕生しました。しかし、そこで前提となっていることがあります。それは、この教会の歩みにおいてイエスは、今までのように「目に見える姿ではそこにおられない」ということです。イエスの名によって派遣されるこの弟子たちを通して、将来の教会の姿が形作られていきます。これが、新しい神の民イスラエルの姿です。その使命を果たすのは弟子たちです。証人というのは、そこにいない人のことを証しするから証人なのです。弟子たちがイエスの証人として遣わされることは、イエスが共におられないことを前提として語られています。今まで弟子たちの目の前におられたイエスが、これからは今までのように見ることができなくなるということです。それが「イエスの昇天」ということです。聖霊の助けを願いながらもう少し考えてみましょう。

 弟子たちへの祝福ということを強調しながらルカは福音書を書いていますが、同じルカが書いた使徒言行録は、復活されたイエスが弟子たちに使命を与え、彼らの目から見えない存在になるという事を強調しながら書いています。

 ルカは、何を伝えたかったのでしょうか。主イエスが去り見えない存在になる…、それは弟子たちにとって不安なことです。けれどもそこに聖霊が降り、そこから全世界に派遣されていく使命を彼らは受けるのです。聖霊の働きがなければ教会は生まれません。その聖霊が降るために必要な事として主の昇天があるのです。このようにして、神の救いの前進を私たちは見ているのです。私たちは、復活されたイエス・キリストの姿をこの目で見たり、手で触れたりすることはできません。何故でしょうか。イエスは天に昇られたからです。この地上を去り、見えない存在となられたからです。

 昇天によって、イエスの姿は私たちから見えなくなりました。しかし、その代りに、イエスと共に私たちのもとで働く聖霊が与えられています。あの時、弟子たちに力を与え支えた同じ聖霊が今の私たちにも与えられ、神の救いの業が前進していくのです。ですから、聖霊の働きの中にある私たちは、イエスの姿を見ることができないと嘆く必要も、心細く思う必要もないのです。教会の歴史は、イエスの昇天から、つまりイエスの姿が見えなくなったところから始まったのです。イエスが天に昇り、見えない方になられたからこそ、約束の聖霊が与えられ、神の力が豊かに注がれるのです。イエスが私たちの目には見えないということ、それは神の救いのみ業の前進であって後退ではありません。このことによって、いつでも、どこでも、私たちは復活されたイエスと共に歩むことが可能となったのです。

 イエスが地上を離れ、見えない存在となられた時、弟子たちは天を見上げて立っていました。そこに二人の天使が現れ、天に昇られたイエスは、またおいでになると告げています。(第一朗読参照) その時、今は隠されているイエスの神としての栄光があらわになり、全てが完成されます。イエスの昇天も また最後のことではありません。地上の教会の歩みは、イエスが天に上げられてから再びおいでになるまでの歩みです。私たちはこの間、イエスの姿を見ることなしに 聖霊の助けを受けながら歩むのです。

 ルカ福音書では、弟子たちを祝福しながら天に昇るイエスの姿が語られています。これから新しい時代を生きて行く弟子たちを励ますイエスの姿です。これからの弟子たちは今までと違い、信仰の目で現実を受け止めながら歩まなければなりません。しかしイエスは、たとえ見えなくなっても、この人々と共に歩もうとしておられます。そのイエスの決意に触れた弟子たちの心はここから変りました。それまで、悲しみに満たされていた弟子たちとは思えない程に変えられていきました。

「弟子たちは自分たちを離れていくイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、神殿の境内で絶えず神をほめたたえていた」。

 これが弟子たちの姿です。イエスの姿が見えなくなったにも関わらず大喜びする弟子たち…、それはイエスが今まで以上に、これからも共にいて下さることを確信したからです。イエスの心を知った弟子たちは、大喜びで神を讃美しながら約束の聖霊を待ち望む者となりました。不思議なことに、主と分かれることによって今までになかった深い信頼関係が成立したのです。

 私たちの心の目を開き、見えるようにして下さるのは主ご自身です。なんと有り難いことでしょう。この恵みの中で私たちも聖霊の恵みを約束されながら祝福を頂いています。

 人間の努力や意志の強さに依らない ”主ご自身から与えられる平和”を深く心に刻み、その平和を生きる者にならせて下さい…、と主に祈る私たちでありますように…。