イエスはあるとき聖霊の働きを風になぞらえて語りました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3・8)。風は目に見えません。しかし、確かに私たちに吹きつけ 働きかけて来るものです。神から送られて来る新しい風…。今日の第一朗読で、聖霊の働きが次のように言われています。「そして 炎のような舌が分かれ分かれに現れ一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2・3)。

 風にしても炎にしても、外から私たちに働きかけて来るものです。聖霊の風を受けることによって、弟子たちは全く予期せぬ形で変えられていきました。それは、創世記にある、「バベルの塔」の物語(創世記11章)で起きた事とは正反対の出来事です。バベルの塔は、人間が天にまで届く塔を建て始めたという話しでした。神に成り代わって生きようとする人間の傲慢な姿がそこに現わされています。時代が変っても人間の現実は、自己中心的な思いで今もバベルの塔を建て続けているのです。互いの思いが通じなくなる原因もそこにあります。自分が神になり、自分のことしか考えられなくなった時、人間は共に生きることができなくなります。これが地上の現実ではないでしょうか。そのような現実の中に聖霊は降りました。そして、共に生きることができなくなった人間が、聖霊の働きによって神の救いの業を語る者に変えられていく…。その時、一人ひとりの違いが恵みとなって共同体への奉仕に役立つものとなっていくのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受け、…地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というイエスの約束が成就したのです。聖霊は、神の救いの業を私たちに理解させてくれます。語る人にも聞く人にも聖霊は働きます。そうでなければ、どんな素晴らしい言葉が語られても福音とはならないでしょう。また教会が誕生することもありません。しかし、聖霊が働くならどんな困難があろうと、神の思いは実現され恵みに変えられていきます。

 教会はこの聖霊の働きによって生まれ、その中で使命を与えられています。それは特別な勉強をすることでも、特別な技術を身につけることでもありません。大切なことは、私たちが聖霊の働きとその導きを祈り求め 協力することです。私が何を望むかではなく、聖霊が何を望んでおられるか、という事こそ最も大切なのです。

 ヨハネ福音書は、聖霊のことを「弁護者」あるいは「慰め主」と呼んでいます。私たちの傍らに立っていつも助けて下さる方だからです。その中で私たちの存在は、新しい時代を生きるに相応しい者へと変えられていくのです。

 聖霊の助けによってもたらされる新しい生き方によって、イエスの思いを大切にしたいという望みも与えられます。イエスによって示された神の愛。その中でイエスの心を受け入れ、目に見えないイエスと共に生きるのです。これが聖霊によって”キリストのもの” とされた人の新しい生き方です。先ず神が私たちを愛して下さったゆえに、その愛に応えて生きる力もこのようにして与えられるのです。

 イエスが教えた新しい掟とは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13・34)ということでした。それは、イエスによって与えられる神の愛に応えて生きることです。神の愛への応答は、同じ愛を持って愛する生き方によってしか応えることができません。しかも、その愛する力も 神ご自身から来るものです。愛されたことに、同じ愛を持って応える…。それが、イエスの言う「互いに愛し合う」という言葉の意味なのです。

 聖霊によって私たちと共にいて下さるイエスは、私たちを、神の愛の中で生きる者として新しく造り替えて下さいました。助け主、慰め主と呼ばれる聖霊の助けを願いながら、私たちはその愛を相応しく生きる者とされるのです。

 聖霊降臨の今日、お二人の方が洗礼を受けます。洗礼の秘跡によってイエス・キリストに結び合わされ、キリストの体である教会に連なる者とされます。キリスト者としての新しい命がここから始まるのです。御父と御子の間にある深い交わりが、聖霊によって私たちにも与えられます。それは、イエスが父に願い、取り次いで下さっているから実現することです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと共にいるようにしてくださる」。イエスのみこころにある思いとは…。「あなたは一人ではない。わたしは世の終わりまであなたと共にいる」という約束です。

 イエス昇天後、弟子たちは母マリアと共に助け主 聖霊を待ち望みました。そこに教会の出発点があります。その教会を通して主は、いつも私たちと共にいてくださいます。今日は全世界の人々と共に その喜びを祝います。