エルサレムの学者たちが驚くほどの賢い受け答えをする少年イエスの姿が語られています。しかし、福音書はここで、イエスがいかに立派であったかとか、あるいは どんなに素晴らしい働きをしたか、というようなことを語ろうとしているのではありません。ルカは何を伝えようとしているのでしょうか。

 イエスは、過越祭のために両親とエルサレムの神殿に来ています。過越祭は、昔イスラエルの民がエジプトで奴隷にされていた時、神の助けによって、奇跡的に脱出できたことを感謝する祭りです。規定に従って、イエスと両親もこの祭りをエルサレムで過ごし帰路に着いた頃のことです。両親はイエスが別のグループにいると思っていたのですが、後から いないことに気づき、親類や知人の間を探し回りながらエルサレムへと引き返しました。しかしイエスは見つかりません。三日目に神殿に行ってみると、境内で学者たちと受け答えをしているイエスの姿を発見します。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いた」と書かれています。イエスは、学者たちの真ん中にいて 彼らから、熱心に学んでいたのです。それは、先輩の学者たちから熱心に律法を学んでいる姿です。実はここに、この話のポイントがあります。イエスは、神の独り子、まことの神であられる方。その方が、私たちと同じ人間になって下さったのです。ここまで、イエスは謙ってくださいました。

 驚く両親に、イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えています。つまりイエスは、「わたしが私の父の家にいるのは当たり前」と答えているのです。イエスの父、それは主なる神です。イエスは はっきりと、神の子としての自覚を持って語っています。ここで語られていることは、血のつながりの話しではありません。ポイントはイエスが「自分の父の家にいるのは当たり前だということがどうして分らないのか」と言う言葉です。

イエスは、父なる神から与えられた任務を果たすために 一人の人間としてこの世にお生まれになりました。その方が今、神殿で学者たちの真ん中に座って話を聞き学んでおられるのです。これは神からイエスに与えられた使命が何なのかを示しています。御父から与えられたこの使命の前では、マリアもヨセフもすぐには理解できないことがたくさんあったのです。イエスが、父である神から与えられた使命を果たすために、両親もまた苦しみの体験をすることになります。彼らは自分たちのもとを離れていくイエスをここで予め体験しているのです。あれ程の恵みを受けたマリアとヨセフ。彼らであっても、初めから全ての事がはっきりと示されていた訳ではありません。これからも両親は、イエスに驚かされ続けることになります。マリアは、この体験をしながらイエスの言葉を思い巡らし続けています。なんと美しい母の姿でしょう。分らないことが頭で理解できて幸せなのではないのです。母マリアであっても地上においては分らないことだらけでした。その中で、イエスが真の救い主であることを信じる信仰が深められていくのです。

分らないからマリアも思い巡らしているのです。イエスの誕生と成長における出来事は、マリアにとっても驚きの連続でした。それはこの後、マリアの生涯を通して十字架にまで続きます。それらを心に納めて思い巡らす中で、マリアはシメオンが予告したように、「剣で心を刺し貫かれる体験」をすることになるのです。それら全てを、神との関わりの中で思い巡らしていく中で、マリアの信仰体験は深められていきます。私たちも同じです。マリアやヨセフのように、イエスに驚き、み言葉に戸惑うことが信仰の初めの一歩なのです。疑問がすぐに解決されることよりも、その疑問を心に納め歩み続けることが大切なのです。そのことによって、イエスとの出会いが深められ、イエスと共に神の望みに従って歩む者とならせて頂けるのです。

1朗読サムエル記に出て来るハンナは、子どもが与えられないことで深い苦しみと悲しみを背負った女性です。彼女は、自分の苦しさ、つらさ、悔しさを神の前に、涙を流しながら訴えました。真実の祈りがここあります。整えられた美しい言葉で語るから素晴らしい祈りなのではありません。日常生活の中で私たちが感じる苦しさ、悲しさ、つらさを神に向けるとき、そこに祈りが生まれます。きれいな言葉で語ることなどとうてい出来ない思いをそのまま神に捧げる、それが本当の祈りです。信仰を持って生きるとは、平穏に生きることではありません。苦しみ悲しみを神のみ前にさらけ出し、助けを求めることが本当の信仰なのです。そこに、神との真実な交わりが生まれます。悩みや苦しみや悲しみを抱えている者が、神のみ前に出てその現実を捧げる、それが本当の祈りです。ハンナはそのように、自分の苦しさ、辛さなどを神にさらけ出して祈りました。その祈りの中で彼女に与えられた思いは、もしも神が私に子供を授けて下さるなら、その子を神にお捧げします、という誓いでした。彼女は、子どもを得たいと願って祈っていたわけですが、彼女は与えられたその子どもを神にお捧げする道を選ぶのです。その結果、彼女の手には何も残りません。彼女はひたすら、神の祝福を求め、他には何もいらないと訴えているのです。このハンナの祈りに応えて、神が与えて下さった子がサムエルでした。このようにしてサムエルは、主なる神に捧げられた者として育ちました。

サムエルが、自分の使命を認識するようになったのも、神殿の中で語られる主の声を聞いたからでした。少年イエスが今、神殿で学者たちから主の言葉を聞き、学びながら、神との特別な関係を深めつつある姿の中に、ルカのメッセージが込められているのです。

イエスの言葉の意味が分からなかったマリアとヨセフ。母マリアはこれらすべてを心に納めています。イエスの発言は、決してヨセフとマリアを否定しているのではありません。実際、イエスはこの後マリアとヨセフと共にナザレに帰り、その後30歳になるまで彼らに仕えて暮らすことになります。聖家族には愛と信頼があり、イエスはこのマリアとヨセフの愛に育まれながら、神の恵みを豊かに受けて成長していくのです。

「神と人とに愛されたイエス」。律法の目的は、この神と人とを愛することにあります。イエスは一人の人間としてこの世に生まれ、マリアとヨセフを通して 神と人とを愛する大切さを学び成長します。少年サムエルも同じでした。彼は、「すくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった」(サムエル記上2・26参照)

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。このイエスの言葉は、私たちに向けられた言葉でもあります。イエスが見えなくなった時、父なる神のおられるところ、そこにイエスはおられるのです。

イエスと同じように、私たちも御父の前にある自分を見出すことによって、神と人々をより深く愛することを学びます。それは、イエスがマリアとヨセフを通して学んだことでもあります。自分の思いによってではなく、神の思いを通して、神の前にある子供たちを本当の幸せに導く、それが私たちの使命です。

神の望みに従う生き方とは…。それは私たちの内に働く聖霊によって明らかに示されます。私たちが、自分の思いに捕われている間は、聖霊も働きようがありません。「キリストの平和」が私たちの心を支配してはじめて、真の喜びと平和が生まれます。この聖霊の働きに信頼し、自分を委ねて生きることが聖霊に導かれて生きることなのです。

子供たちを育てる上でも、これは非常に大切な事です。何を話すにせよ、何を行うにせよ、すべてイエスの名によって、神に感謝しながら…なのです。キリストの平和に支配された心で子供たちを導くことができるようマリアとヨセフに助けを求めて祈りましょう。そこからたくさんのことを学びます。聖家族にならい、愛の絆に結ばれて、地上の全ての家族が真の喜びと平和に与ることができますように。世界平和の源もそこにあります。