「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た…。」福音書はこのような言葉で、主の降誕の出来事を書き始めます。
皇帝が課税目的で発布したこの勅令のために、マリアとヨセフはナザレからベツレヘムまでの長い道のりを旅することになります。身重のマリアにとって、それは大きな困難を伴う旅であったことでしょう。
「マリアは子を産み、飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
「その地方で羊飼いが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」
「羊飼い」が登場する話しを聞くと、現代の私たちは のどかな風景を思い起こします。しかし、当時のローマ帝国の羊飼いは、住民の数にも入っていない恵まれない環境で生きている人たちでした。ユダヤ人社会においても、彼らは蔑まれた存在でした。ですから、野宿をしている羊飼いたちが登場してくる物語と言っても、決してほのぼのとした微笑ましい場面ではないのです。国家や民族からはじき出されながらも、必死に毎日を生きている人々の話なのです。そのような人々に、一番真っ先に救い主誕生の知らせが届けられるのです。自分が生きている場で、自分の居場所がない…なんと悲しい現実でしょう。神は先ず、このような人々に、喜びの福音を告げたのです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。
ユダヤ人たちも彼らを仲間とは見なしていません。神の救いとは無関係の存在と見なされていました。しかし、神は彼らに「あなたがたのために、今日救い主が生まれた」と言っているのです。どこにもあなたがたの場所がなかったとしても、神は、あなたがたのために場所を用意してくれている、ということです。続けて語られます。
「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
どうして、飼い葉桶に寝ている幼子が救い主のしるしなのでしょうか。そもそもなぜ、神の御子が飼い葉桶などに寝ているのでしょうか。その答えは、「宿屋には 彼らの泊まる場所がなかったからである」と説明されています。
マリアの胎にいた幼子イエスもこの地上において、自分の場所を持つことはできませんでした。だからマリアは生まれたばかりの幼子を飼い葉桶に寝かせるしかなかったのです。宿屋がなかったわけではありません。自分のことしか考えられないほどに、人々の心は荒んでいたのです。
宿屋から閉め出された幼子。やがてユダヤ人たちからも彼は見捨てられることになります。最後は、この地上に自分の場所を持たない者として彼は死んでいきます。その十字架は、エルサレムの都の中ではなく外にありました。神の都エルサレムで死ぬことも許されませんでした。十字架上で主が死なれたとは、そういうことです。飼い葉桶に寝かされた神の御子の姿です。キリストはこのように悲惨な状況に来てくださいました。しかも、ご自分はこの地上に居場所を持たないものとして。生まれた時から十字架の最期に到るまで。
羊飼いたちが、自分の場所を持たない者であったように、キリストも彼らと同じ姿で今飼い葉桶に眠っています。これ程の惨めさ、地上の悲惨さにまで降りて来てくださったのがキリストです。聖書は、それこそが救い主のしるしであると語ります。羊飼いたちに与えられたしるしとはそのようなものでした。だから、彼らには幼子の放つ光が、しるしが分ったのです。
それはまた、私たちへのしるしでもあります。あなたが今、どんなに惨めな状況にいようと、キリストは降りて来てくださいます。あなたも、神の愛の対象だと語りかけておられるのです。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神を賛美しながら帰って行きます。しかし、その先には、今までと同じ生活が待っています。これまでの生活と何も変わりはありません。しかし、彼らはもはや、この地上に 自分の居場所のない者ではありません。彼らは神の中に自分の居場所を見出したのです。
クリスマスの物語は、そのことを語っているのです。神の中に、飼い葉桶に眠る幼子の中にあなたの場所があると。あなたもこの神との交わりに生きるよう招かれているのだと。
主の御降誕おめでとうございます! お生まれになった幼子の光が、冷たく凍りついた私たちの心を暖めてくださいますように…。
今春、復活祭の翌日に徳田教会へ異動し8ヶ月が過ぎました。皆様にはたくさん支えて頂いております。ありがとうございます。その恵みの年も残り少なくなってまいりました。頂いた恵みに心から感謝しつつ。幼きイエスの祝福に満たされた新年となりますように…。
徳田教会 助任 福田正範神父