皆様、明けましておめでとうございます! いよいよ 新しい年が始まります。

「マリアは月満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(2章6)。

聖書は、何気なくさらりと書いていますが、考えてみてください。家畜小屋で我が子を産み、生まれた子を 飼い葉桶に寝かせなければならなかったマリアの気持ちを…。マリアは、自分よりも生まれたばかりの我が子を心配して、一刻も早く安全な場所に移してあげたかったことでしょう。これから先の事を心配するマリアの姿がそこにあります。

 傍らにいるヨセフも同じです。愛する人が家畜小屋で子供を産むことを彼が望むはずはありません。彼もまた、宿を見つけるため、あらゆる手立てを尽くしたことでしょう。しかし、悲しいことに…、ここまでしかできなかったのです。どんなに家族を愛していても、本当に必要な時に必要なものを与えることができない。悔しさの中でただ見守るしかない。

そのような時を 私たちもまた知っているのではないでしょうか。それが、ここに描かれていることの意味です。マリアもヨセフも、彼らなりにできる限りのことをしたのです。しかし 結局は、飼い葉桶に自分の子を寝かせるしかありませんでした。そこまでしかできなかったのです。マリアとヨセフの悲しみがここにあります。

 その悲しみを 今日の私たちもまた知っています。生きていくために、幸福で安全な社会を…と誰もが願っているでしょう。しかし、現実にはドロドロとした現実の社会に、子どもたちを置かなければなりません。あのマリアとヨセフの姿にこの世の現実が重なります。

 そもそも、月満ちたマリアがどうしてあのような長旅をする必要があったのでしょうか。皇帝が勅令を出したからです。自分の意志とは関係のないところで勅令が出る。自分の願いとは関係なく、それに従わざるを得ない。それもこの世の現実です。マリアとヨセフに起こった事は、私たちにも起こっていることなのです。マリアとヨセフが体験したことは、私たちの人生においてもいま起っていることなのです。

 野宿をしながら夜通し羊の群れの番をする羊飼いの姿。夜通し羊の群れの番をしなければならないのは、野獣が襲って来るからです。時には自分の命と引き替えに羊を守らなければならないこともあります。しかし、それでも羊飼いたちに選択の余地はありません。そうしなければ生きていけないのです。どんなに苦しくても逃げることはできません。生きていくために…、過重な労働に留まらなくてはならない…。これもこの世の姿です。

 そのような現実を生きる羊飼いたちのところに天使が現れて言います。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2章10以下参照)。そして天使たちは神をたたえて歌います。

「天のいと高きところには神に栄光、地には平和、みこころに適う人に」

 天使たちは天において神を讃美しているのではありません。辛い現実にあるこの地上まで降りて来て、この地上で神を讃美しているのです。それは、貧しく弱い羊飼いたちもこの讃美に加わることができるように。そのために天使たちは地上に降りてきて苦しむ人々と共に歌っているのです。

 「天のいと高きところには神に栄光、地には平和、みこころに適う人に…」と。

神を讃美する歌は、悲しく辛いこの世の現実の中でこそ歌われるべきものです。天国に行って初めて歌うものではありません。苦悩に満ちているこの世においてこそ歌われるべきものです。悲しみに満ちたこの世界に救い主は来てくださいました。この世の悲惨さの中に置かれた飼い葉桶の救い主。その中で幼子は寝ておられます。神が与える喜びは、この世の家畜小屋にさえ届けられているのです。私たちはそこで神のみこころを讃美しているのです。

 「神の母聖マリア」…それは、神の御子が、マリアから生まれることによって人間性を受け取られたということです。マリアは神である御子に人間性を与えました。マリアなしに、神であると同時に人であるイエス・キリストは存在しません。その特別な使命のゆえに、マリアはその存在の最初の瞬間から守られていました。全ての恵みはイエスから私たちに与えられます。そのイエスの母マリアが、私たちのために取りなしてくださる。これも永遠の神が永遠の昔から計画されていた偉大な神の計画です。十字架にたたずむマリアの姿の中に、私たちのために祈る母の姿があります。母マリアは、イエスから送られる救いの恵みをなんとしても私たちに届けたいのです。それゆえにマリアは、泣く人と共に、悲しむ人と共にいます。やはりマリアは神の母、ゆえに私たちの母でもあるのです。

新しい年も、聖マリアの祈りに支えられた恵みの年となりますように…。