ここに登場する婦人たちは、イエスがガリラヤで活動しておられた頃から奉仕していた人々です。彼女たちは、イエスの十字架、そして埋葬まで目撃しています。イエスが殺されてしまった深い悲しみと嘆きの中で過ごしていました。安息日が開けるやいなや、彼女たちは急いで墓にやって来たのです。急いで埋葬されたイエスの遺体に香料を塗り、もう一度丁寧に埋葬しようと思ったからです。それなのにイエスの遺体が見つからないということで、彼女たちは途方に暮れてしまいます。彼女たちにとってそれは、絶望の上にさらに絶望を重ねられるような体験だったでしょう。このように、復活の朝は 途方に暮れる婦人たちの体験、絶望の体験から始まっています。そこが重要なところです。
途方に暮れる彼女たちの傍らに、輝く衣を着た二人の天使が現れ 語りかけています。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。
イエスの復活が告げられています。しかし、彼女らは復活したイエスにまだ出会っていません。イエスを捜してはいますが、違う場所を探していることに気付かされます。「あの方は、ここにはおられない」のです。いくら墓の中にイエスを探してもそこにはおられない。イエスは復活し、生きておられる、と天使は告げています。これを聞いた夫人たちは、喜ぶどころか、ますます途方に暮れてしまいます。イエスを失った彼女たちの悲しみは深いものでした。今度はその遺体さえも失うことになります。イエス復活の喜びを伝える天使の言葉は、彼女たちの希望になるどころか更に深い悲しみの元となるのです。
そこで天使は言っています。「まだガリラヤにおられたころ、イエスが語ったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。その言葉を思い出しなさい、と天使は言っているのです。彼女たちは、イエスが捕えられ殺されるなどということは想像も出来ないことです。いや、理解したくなかったに違いありません。しかし、イエスの死を目の当たりにして、その遺体がなくなったという現実の中で彼女たちは、かつてイエスが語った言葉を少しずつ思い出しています。
これは、私たちの姿でもあります。弟子たちでさえ、婦人たちが語る言葉を「女性のたわ言」として信じませんでした。彼らもイエスと3年間も寝食を共にしていたのですから、かつてイエスが受難と復活を予告しておられたことを思い出した事でしょう。しかし、信じることはできなかったのです。後に彼らは聖霊の働きを受けてイエスの復活の証人となり、使徒として用いられていきます。その使徒たちでも、復活の日の朝はこのような状態だったのです。これが神のなさる不思議なみ業です。
その中でペトロだけは少し違う反応をしています。「ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」。ペトロが急いで墓へ走った事には意味があります。イエスは最後の晩餐でペトロにこう言いました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と。すると彼は、「主よ、御一緒になら、牢に入っても 死んでもよいと覚悟しております」と言いますが、イエスは「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」ともおっしゃいました。その予告の通り、彼はイエスが捕えられて連行された大祭司の屋敷の中庭で、「お前もイエスと一緒にいた」と指摘されると三度もそれを否定し、イエスの事など私は知らないと断言しました。彼が言い終わらないうちに鶏が鳴きました。この時、イエスが振り向いてペトロを見つめられたあのまなざし…、ペトロはそれを思い出し外に出て激しく泣きました。この体験を持つペトロです。彼が、婦人たちの知らせを聞いて立ち上がり墓へ走って行った時、彼の胸のうちには様々な思いがあったのです。あの大祭司の中庭で、三度もイエスを「知らない」と言い切った自分。その自分を振り向いて見つめられた時のイエスのまなざし…。そのまなざしの中でペトロが思い起こしたイエスの言葉…「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。立ち直ったら仲間たちを勇気づけてあげなさい」と言うイエスの言葉をどうして忘れることができましょう。ペトロは、刑場へ引かれていくイエスの姿の中に、自分のために祈るイエスを感じ取っています。だからペトロは我に返って走り出したのです。ペトロが向かった先はイエスを葬った墓でした。
しかし、婦人たちも、ペトロも、その墓の前にうずくまることしかできません。彼らは、イエスの復活が告げられた今もなお受難の中に留まることしかできないのです。これもまた、私たちの姿ではないでしょうか。復活祭を迎えたら自動的に復活の主に出会い、喜びに満たされるわけではありません。それは、私たちが自分の力で到達できるものではないからです。
私たちの生活もまた、「あの方は、ここにはおられない」という言葉に日々直面させられています。疑いや迷いによって、見当違いの方向へと走って行く私たちですが、その体験の中で自分のために十字架を引き受けて下さったイエスを発見するのです。自分を裏切るユダの足もイエスは洗いました。この時のイエスの悲しみを思い起こしましょう。神の救いとは、困難や悲しみがなくなる事ではなく、傷つきながらも、私と共に十字架を担ってくださる主を、そして今も 私の足を洗い続ける主を発見する事なのです。 復活された主の愛が、苦しむすべての人々の心を満たしますように…。
以下の3人の方が、復活祭に洗礼を受けられます。共に喜び祝いましょう。
4月16日:復活徹夜祭ミサにおいて
・(フランシスコ 吉)山口 浩(ひろし)様
・(ステファノ) 山口 駿(しゅん)君
4月17日:復活の主日11:30のミサにおいて
・(ヨゼフ) 波多野 里柘(りつ)君