イエスの十字架において私たちが見つめるべきものは何でしょうか。私たちはここで、人間の罪のもたらす恐ろしさにも目を向けなければならないのです。そこには嘆き悲しむ婦人たち、祭司長、犯罪人たち…がいます。それぞれが、自分の置かれた所からイエスを眺めているのです。キレネ人シモンは、全く予期せぬ形でイエスの十字架を担わされました。(マルコ15・21参照) 彼は、嫌々ながらも十字架を背負って、イエスの後ろを歩みます。十字架を背負う人間の姿とはそのようなものなのかもしれません。「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたイエス…。 私たちにとって ”自分の十字架”とは 何でしょうか。それは、自分で決めるものではありません。シモンと同じように、その時の私たちには分らない形で背負わされるもの…、それがまさに十字架です。
困難や痛みの多い私たちの体験が、そのまま十字架になるのではありません。私たちもイエスの十字架を担わせて頂いているのです。それは私たちの十字架を、イエスが先頭に立って担っているものです。この十字架をイエスの後ろから、イエスと共に私たちも担って歩むのです。よろめき、倒れながらでも、イエスと共に歩むのです。その歩みは、期せずして人々を変えます。その中で私たちは、神の独り子が、十字架の苦しみと死を引き受けてくださったことの深い意味を知らされるのです。
イエスと共に十字架につけられた二人の強盗も登場します。彼らは共に十字架につけられながら、二人とも正反対の立場を取っています。彼らがつけられている十字架は自らの罪の結果です。その中で一人の犯罪人はイエスと出会いました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。」… なんと衝撃的な言葉でしょうか。イエスが、今どのような痛みと苦しみの中にあるかを彼らは誰よりもよく知っていたはずです。その痛みと絶望の最中においてもイエスは祈っているのです。自分を正当化しようとする思いが渦巻く場において、自分を十字架につける人々のためにとりなすイエスの姿…。それは、多くの人々の心を打ち砕きました。このイエスの祈りによって人は新たにされるのです。
しかし、同じ体験をしているもう一人の犯罪人は言っています。「お前はメシアではないか。それなら先ず自分自身を救ってみろ。そしたら信じてやる」と。イエスをあざ笑い、侮辱する人々は「まず自分自身を救え」と言います。それから、世の苦しんでいる人々を救えばよいではないかと。十字架など何の役にも立たない、さっさとそこから降りて来て、もっと効果ある別の方法を考えるべきだと…。しかし、共に十字架につけられたもう一人の犯罪人は彼をたしなめ、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は、何も悪いことをしていない 」と言っています。彼は、十字架上で祈るイエスの姿を見て変えられたのです。根本的なところで変えられたのです。そして、イエスに願っています。「主イエスよ、あなたの御国においでになるとき、どうか わたしを思い出してください」。これが、この世における彼の最期の言葉でした。楽園がどのようなものなのか…、そんなことはもはや問題ではありません。イエスが共におられる。それだけで十分なのです。これに対するイエスの答えは、「あなたは 今日 わたしと共に楽園にいる」という約束でした。そこに本当の救いがあります。
私たちはイエスの十字架をどのように受け止めているでしょうか。十字架の周りにいる様々な人々を通して大切な事を学びます。彼らは、イエスの苦しみと悲しみに対して、何を思い 何を見つめているのでしょうか…。天国をどのように受け止めているのでしょうか。第二朗読は、「キリスト賛歌」と呼ばれる有名な箇所です。パウロは言っています。
「キリストは神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられた」。(フィリピ2・7)
これは、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶイエスの言葉と同じです。神は神でありながら、痛み苦しみ、絶望している人々の中にご自分を置かれたと言う事です。私たちの叫び、弱さをこの方は知っています。その上で、イエスは十字架において死んで下さったのです。イザヤ書でも預言されている事です。十字架上の死は、旧約の世界では神からも人からも見捨てられた死、恥と屈辱に満ちた死を意味します。そこまで神は降りてこられたのです。私たちが忘れていたのはこの神の愛だったのです。
今日から始まる聖週間は、イエスの苦しみと悲しみを通して表された神の愛を黙想する時です。ここまでへりくだられたキリストの姿を黙想し、神の愛への返答を私たちも自分なりに見出すことができますように…。そして、私たちのために御父の御前で祈り続ける主イエスの姿に出会うことができますように…。
聖木曜日に行われる「主の晩餐」を記念する夕べミサにおいては、弟子たちの足を洗うイエスの姿が語られています。(ヨハネ13章) 聖体の秘跡とイエスの死は固く結びついています。パンは十字架において裂かれる主の体、ぶどう酒はそこで流される血を示しています。また、弟子たちの足を洗う主の姿は、あがないの十字架を示しています。膝を屈め、僕の姿で弟子たちの足を洗われる主の姿です。主が、弟子たちを最後まで愛し抜かれるとは、そういうことです。ペトロは驚きながら、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と聞いていますが、その意味は後日イエスが復活し聖霊が降る時まで秘められています。余りにも畏れ多い事として「わたしの足など、決して洗わないでください」言うペトロに主は「もし わたしがあなたを洗わないなら、あなたとわたしは何の関わりもないことになる」と答えています。厳しい言葉です。イエスとの関わりまでも失うとはどういうことでしょうか。それは、私たちとイエスとの関わりが何によって成り立っているかを示しています。私たちとイエスとの関わりは、何によって成り立っているのでしょうか。立派な模範的行いによってでしょうか。いいえ、それは十字架において示されたキリストの愛を私たちが受け入れ、主ご自身が私たちを洗って下さることによって成り立つものです。もし これを拒むなら、どんな立派な理由があろうとも、「あなたは わたしと何の関わりもない」と主に言われるほど大切なことなのです。その事を忘れてはなりません。
私たちは、キリストの十字架とあがないによって、その溢れる愛によって、主に関わるに相応しい者とされるのです。その交わりを続けるために、繰り返し 繰り返し 罪の赦しを受ける必要があります。そのとき主は、私たち一人ひとりの前にかがみ込み、私たちの罪を拭っておられます。そして、あなたのその体験を世の終わりまで語り伝えるように、と主は望んでおられるのです。