朝早く墓に行ったマグダラのマリアは、入口が開いているのを見て驚きます。遺体が盗まれたと思ったからです。大急ぎでシモン・ペトロと、もう一人の弟子のところに走って行き、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか わたしたちには分かりません」と伝えます。これを聞いた弟子たちもあわてて墓に走り出しています。「もう一人の弟子」と呼ばれている弟子のヨハネがペトロより先に到着し、身をかがめて中をのぞき込むと亜麻布が見えた…と言うのは、弟子たちの筆頭ペトロが到着するまで中に入るのを控えていたのでしょう。後から到着したペトロと共に中に入り注意深く観察して見ると、亜麻布はそのままであったけれどもイエスの遺体はそこにはなかったのです。遺体はなくなっているのに、遺体を包んだ亜麻布は葬った時と同じような形でそこにあったということです。なぜでしょうか? これが聖書のみ言葉の成就であることに、彼らはこの時点においては気付いていません。後から理解するようになります。
「見る」という言葉が強調されています。そこで彼らが見たものとは何だったのでしょうか。それは、入口の石が取りのけられた空の墓です。そして、遺体がなくなり抜け殻となった亜麻布を見ています。彼らが見たのは、イエスが復活されたあと抜け殻となった亜麻布です。死と闇の抜け殻と言ってもいいでしょう。主は復活し そこにはおられません。この後彼らは徐々にですが、復活されたキリストを信仰のうちに見る者に変えられていきます。悪の働きに利用された人間は、キリストを十字架につけました。そして 死の力はキリストを墓の中に閉じ込めようとしました。しかし、それがどれほど大きなものであったとしても、主を墓の中、死の中に閉じ込めておくことはできなかったのです。ペトロとヨハネが目撃した抜け殻、それは人間を呑み込もうとする死の力、悪の力に主が打ち勝ったことを意味します。ですから、たとえ空の墓にすがりついたとしても、そこに主の体を発見することはできないのです。
いつの時代でも、戦争は多くの命を奪います。現に今でも、世界は闇の力に覆われている事を私たちは報道を通して知っています。そのような悲惨な現実の中で、キリストの復活とは一体何だったのでしょうか。私たちが見ているこの世の悲惨な現実、それは人間の罪の結果です。しかし「キリストの復活」という出来事の前においては何の力もありません。悪の力も、イエスを墓の中に閉じ込めておくことはできなかったのです。この世に働く悪の力がどれほど強く見えても、主は悪の力に打ち勝ち復活されたことを忘れてはならないのです。それがいつまで続くのか、どのような形で解決するのかしないのか、私たちには分りません。しかし「恐れることはない、わたしは復活し、あなた方と共にいる」という主の約束がなくなることは決してないのです。その事を体験した人々の証言を私たちは聞いているのです。
イエスは金曜日の午後、十字架上で死なれました。ユダヤ暦は、日没から一日が始まります。日が暮れたら何もしてはならない安息日(土曜日)となります。それでイエスの遺体は金曜日の日没前に葬られました。それで、婦人たちは日曜日の朝まだ暗いうちに、イエスの遺体を丁寧に葬り直すために香料を携えて出かけて行ったのです。しかし、マリアは何かをするためというよりも、墓に葬られたイエスの傍らにいたかったという気持ちの方が強かったでしょう。そこで涙を流すこと位しか、彼女にはできなかったのです。それは愛する者を失った人たちが今も体験していることです。そして、マリアが墓に着いた時、墓は開かれておりイエスの遺体もなくなっていました。マリアは胸騒ぎを起こし、大急ぎで弟子たちのもとへ走り出します。
もし、イエスが墓に葬られたままだったら、彼らの反応はどうだったでしょうか。予想どおりのことですから、このような事にはなりません。マリアも弟子たちも信仰の挫折を抱えながらそれでも…、自分を愛してくれたイエスの死を深く悲しみながらそれでも…、いつもの生活に戻るしかなかったでしょう。しかし、イエスの墓が空になった今、それまでの彼らの体験は通用しなくなります。どうすればよいのかさえ分らないまま、彼らは何かに突き動かされるように走り出します。話を聞いた弟子たちもまた走り出しました。どこに向かってでしょう。墓に向かってです。そうするしかなかったのです。これが、予期せぬ出来事に直面した人間の正直な反応だったのです。
別の箇所で、イエスがトマスに言われた言葉を思い出します。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸い…」(ヨハネ20・29参照)。「見ないで信じる」とは、復活したイエスをこの目で見ていないのに受け入れる恵みです。それは、強い信仰を持とうとする人間側の努力によってではなく、死を超えて生きておられるイエスの心に触れ、促されることによって初めて実現するものです。ヨハネ福音書が私たちに伝えているのはそのことです。何と驚くべきことでしょうか。
「主の御目にあなたは重んじられている。わたしがあなたを忘れることは決してない。… 見よ、わたしはあなたを手のひらに刻んだ。」(イザヤ49章参章)
そうです。ここで起っていることは、痛みと苦しみ、絶望と悲しみの最中にあっても、神は私たちを決して見捨てないということです。この神の思いに気付くならば、あなたがたもこの愛に生きる者にならせて頂ける、ということをヨハネは語っているのです。実際、彼は弟子たちの中で神の愛に自分を委ねた第一の者になりました。最初から神の計画を理解していたわけではありません。信仰は頭で理解する前に、イエスを信じて歩む中で深められるものなのです。ただ我慢して世の不正を耐え忍べば良いというのでもありません。特に、復活の神秘は神の愛と深く関係しています。彼らが思わず走り出したのは、今でもイエスに深く愛されていることを知ったからです。死んでしまったと思っていたイエスが生きておられる。そのことを知った彼らは、イエスと出会い別れた最後の場に走り出したのです。そこで彼らは、全く予期せぬ形で復活の主に出会うことになります。
主の復活を語る福音の記述には、新鮮な驚きがあります。人間の考えや経験、想定される人生の中に安住しようとする者を根底から覆します。弟子たちが目撃し翻弄された死の抜け殻、その悲惨な現実に留まっていてはならないのです。私たちが見なければならないのはその向こうにある主の復活です。そこから弟子たちが派遣されたように、私たちもどこに向かって歩めばよいのかを教えて貰うのです。
これが復活の主に出会った人々の体験でした。しかも、一人ひとりの体験は違います。マリアもペトロもヨハネもトマスの体験も同じではありません。しかし、その違いの中で同じ主によって生かされ派遣されていることに気付かされるのです。そこに主がおられなかったら、残念ながら私たちだけでは一つになることができません。しかし、主が望まれたなら全ては変わります。私たちは互いの違いや欠点さえも恵みとして受け止めつつ、主を証しする者となるように招かれているのです。主の御復活を祝う全世界の教会と結ばれながら、特にコロナ禍の中にあって苦しむ人々、ウクライナ、ミャンマーなどで今も困難な状況にある全ての方々と心を会わせながら、必要な力と助けを願いましょう。主の御復活おめでとうございます! 「今日こそ神が造られた日。喜び歌え。この日を共に…」(詩編118・24)