「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」(20節)イエスの約束の言葉です。大切な事は教会の交わりの中に、今も生きておられるイエスがおられるということです。イエスは私たちの交わりの真ん中にいてくださいます。たとえ、二人であっても三人であっても、交わりの中心にイエスがいてくださり、挫けそうになる私たちの心を励ましてくださいます。

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(19節)

心を一つにして祈る私たちと共に、主はいて下さいます。様々な音色を持つ楽器が、一つの美しい音楽を奏でるように、私たちの祈りもそのような祈りであるように、というイエスの願いです。いつの時代にも、祈るべき課題がたくさんあります。一人ひとりが捧げるその祈りは、教会の祈りとなって父なる神に届けられます。そこで私たちは何を祈るのでしょうか。病者のため、困難な状況に置かれている人たちのため、特に子供たちのためにも祈ります。それだけではありません。教会から離れてしまった人々のためにも祈ります。天の父の御心は、これらの小さな者の一人が滅びることも望まれません。あなた方もかつては小さな者であり、見つけて頂いた者ではないか。だから、あなた方も父なる神のみ心を生きてほしい。特に、迷い出た一匹の羊のために、心を砕き祈る者であって欲しい…。これは、イエスが願っておられる事です。

イエスの心はいつも、小さな者たち、特に罪人に向けられていました。それは、イエスが示された教会の姿でもあります。主のみ心を生きようとする教会は、私たちは、特にその事を心に留めながらイエスから託されている使命を生きる力を願うのです。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(15節)

 断罪するためではありません。全ては兄弟を得るためです。神の前で私たちが悔い改めることができるとすれば、それは自分のために心を砕いて祈ってくれる人々の存在があるからです。その交わりの中に、「わたしはいる」約束しておられるのです。このイエスとの交わりの中で私たちは、真の悔い改めに導かれます。

 「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白するペトロに主は言われました。「あなたは幸いだ」「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と。そして最後に、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)

「主よ、あなたこそ私たちの救い主」というペトロの信仰告白を土台として、その上に、主は教会を建ててくださいました。それは、死の力に打ち勝つことのできる確かないのちに満ちた教会です。主は教会に「天の国の鍵」を残して下さったのです。鍵を預けるという事は信頼しているからこそできることです。イエスは地上の教会を愛し、私たちをそこまで信頼しておられます。

 天の国の鍵は陰府の力、死の力と戦うために与えられている恵みです。迷い出た一匹の羊が、再び神のもとに戻って欲しいというイエスの願いです。天の国の鍵は、全ての人を救いに招き入れるための恵みです。イエスのこの願いの実現のために、主は私たちに協力を願っておられるのです。イエスは私たちに祈る使命を与えていて下さいました。このイエスの祈りを地上の教会は世の終わりまで、イエスと共に担い続けます。それは、共におられるという主の約束なしでは実現できない努めです。同時に、十字架と復活の主が教えて下さった祈りの力を忘れてはなりません。

赦すことが出来るのは、私たち一人ひとりもまた赦された者だからです。その喜びの中で、今度は兄弟を赦す力を頂くのです。主の愛に助けられながら、もう一度神のもとに、共に歩む力を頂くのです。そのために祈りなさいとイエスはおっしゃいました。そこに、地上の教会に与えられた使命があります。

「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるからである。」(20節)

主を愛することにおいて、もうこれで十分ということはありません。本当の愛を生きるために、主がどれ程の愛を注いで下さったかを知る必要があります。その事をパウロは第2朗読(ローマ13章)において語っています。私たちは、愛を生きることにおいて、借りがある者なのです。ユダヤ人たちは、律法を完璧に全うすることが、負い目のない立派な信仰を持つ人間であると考えていました。そのような人々に対してパウロは、人を愛する者こそが律法を全うする者である、と語っています。完全な愛を生きれる者は一人もいません。むしろ、愛において不完全さがあることを意識し、それでも愛されていることに感謝しながら生きようとする人の生き方の中にこそ、本当の愛があるのです。そこに、神が律法をお与えになった本来の目的もあります。愛に十分応えきれない負い目を意識しつつ、その痛みの中で、神の助けによってその愛を生きようとする生き方こそが、律法を全うする生き方、イエスを通して与えられる新しい生き方なのです。そもそも律法や掟は、私たちが、清く、正しく、負い目のない者となるために与えられたものではありません。私たちが隣人を愛して生きるために与えられた指針です。

イエスの語られた言葉を思い起こしましょう。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。そして、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(マタイ22・37~39) 律法が目指している目標は、私たちが神の心を知り、生きる者となる事です。私たちが追い求めているものは何でしょうか。律法や掟をどんなに完璧に生きたとしても、それだけで福音を生きたことにはなりません。神が私たちに求めていることは、ただ単に正しい者、清い者となることではないのです。そのような生き方の中で私たちは、自分中心の愛を生きてしまうのです。

罪深い女を赦すイエスの姿(ルカ7・36以下)、善きサマリア人の姿(ルカ10・25以下)、罪ある女を裁く祭司やレビ人たちの姿(ヨハネ8章参照)

これらの福音箇所から、イエスが伝えようとする本当の愛が見えてきます。サマリア人は、祭司やレビ人の立場からすれば汚れた罪人でした。しかしそのサマリア人が、本当の愛を生きていたのです。それは、彼らが優しい人だったからではありません。愛することにおいては自分にはいつも負い目がある事を意識していたからです。そういう人たちこそが、具体的に人を愛することができるとイエスは語っているのです。いつも、イエスを見つめていなければ、私たちは自己満足的な愛になってしまいます。それは相手を生かす愛にはなりません。自分が愛において不完全な者、欠けた者であることを自覚している人は、自己流の愛を押し付けることはしません。私たちは本当の愛に欠けている者であることをいつも意識していなければなりません。それ故に、イエスは「わたしの愛に留まりなさい。わたしの愛を求めなさい」と言われます。そしてイエスと共に、本当の愛を生きる者になりなさい。」と呼びかけておられるのです。

どうすれば、その愛を求めて生きることができるのでしょうか。イエスは、隣人を愛することができず、互いに傷つけてしまっている私たちのために、人間となってこの世を歩んで下さり、私たちの罪を背負って十字架上に死んで下さいました。神はイエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、イエスの復活によって私たちがイエスと共に愛を生きる者となれるよう聖霊を送って下さいました。このイエスの愛の中で、私たちは主を求め、主の愛によって生かされていく者となります。その中で私たちは、主の愛に十分応えきれない負い目があることを意識しながら、そこにも大切な使命があることを教えられ、その痛みを喜んで受け止める者に変えられていくのです。それが、主イエス・キリストによる新しい生き方なのです。