今日から、主の降誕を準備する待降節が始まります。「目を覚ましていなさい」という呼びかけが何回か出てきました。私たちの信仰は、目を覚まして 主人の帰りを待つ信仰なのです。なぜ、目を覚ましていなければならないのでしょうか。主人とか人の子と言われているのはイエス・キリストのことです。イエスがもう一度来られる、そのとき この世界の救いが完成される…、これはイエスの約束です。いたずらに、恐れや恐怖を抱かせることではありません。この世においては様々な限界がありますが、私たちに約束されていることは、主と共にいることが現実の事となる恵みであり、それが救いの完成の時なのです。それゆえに私たちは、イエスがもう一度来られるという約束を 希望をもって待ち望むのです。
今日の福音で強調されていることの一つは、主人が旅に出ていないということです。それが地上における私たちの姿です。しかしそれは、イエスが共におられないということではありません。 確かにイエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さった方です。今この時も、主は私たちと共におられます。目には見えない仕方で、聖霊の働きによってイエスは今も私たちと共におられるのです。しかし、目に見える姿においては不在です。イエスの再臨とは、今は隠されており、信仰によってしか受けとめることの出来ないこの事が、誰の目にも明らかにされる時です。その救いの完成の時を待つ私たちに、なすべき仕事が割り当てられています。ここで語られていることは、主人の留守中にも、割り当てられた各自の仕事を果たして欲しいというイエスの願いです。それは、主人の働きを主人に代って担うようにという願いです。主人の留守中、私たちに与えられている任務、…それは目に見えないイエスとの交わりを地上において生きるという任務です。そのために障害となるのは私たちの外にではなく、私たち自身の中にあることにも気付かなければなりません。
「目覚めて 主の帰りを待つ…」これが私たちの務めです。主人がいつ帰って来るのか、知らされていない中での務めです。そこで、いつ帰って来てもいいように、目を覚まして準備していなさい、ということだけが言われています。私たちにとってこれは、何よりも大切な務めです。しかしこの務めを、個人で果たすことはできません。イエスを信じる共同体に対する命令なのです。恐れの感覚を持って生きることではなく、喜びをもって希望のうちに神の訪れを待ち望む信仰を世に証しする共同体であって欲しい、という教会に対するイエスの命令なのです。
神の救いの神秘が隠されているこの世の現実を、信仰の目で見つめながら私たちは生きます。それが、目覚めているということです。その反対が眠っている状態でしょう。イエスによって約束されている救いの恵みを信じて、喜びと希望をもって今を生きる恵みが私たちに与えられていることを思い起こしましょう。
主が約束しておられる救いの完成の詳細を知ることは、今の私たちには明らかにされていませんが、そこで大切なことを学んでいます。私たちの信仰は、いろいろなことを知ることによって安心する信仰ではないということです。分らない、ということの中に留まり続ける信仰なのです。その緊張感の中で、イエスは私たちと共におられます。
考えてみてください。イエス自身、その緊張感と忍耐の中に留まりながら、私たちと共にいて下さった方でした。イエスが信頼して留まっておられた父に向かって、イエスから必要な助けを頂きながら、私たちも同じ道を歩むのです。イエスも私たちと同じ体験してくださった方だからです。イエスにおいて知らない、分らないということは父なる神に深く信頼して生きることでした。このイエスと共に私たちも、父なる神に信頼して委ねる信仰を生きるのです。知らないこと、分からないことがたくさんあっても 私たちの信仰には何の害もありません。それでよいのです。信仰において、私たちが全てのことを知っている必要はありません。父なる神が全てを知っておられ、私たちに必要な全てを与えて下さる…、それで十分なのです。知っていることによって得られる安心とは全く別の、深い安心感がそこに生まれます。自分の人生において、また世界の将来においても、私たちはこれから何が起こるのか十分には分りません。 それらは全て父なる神が知っておられます。ただ一つ知らされている事は、将来イエスが帰って来られるその時、私たちの救いが完成するということです。その約束を信じて喜びと希望のうちに主を待ち望む者であれという呼びかけです。
私たちから離れて御父のもとに帰られたイエス。にもかかわらず、私たちがイエスと共に歩むことができるのは、聖霊の働きがあるからです。イエスが私たちを離れておられるのは、私たちのために場所を準備するためです。
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(42~44節)。
しもべたちは、主人からある役割を委ねられています。用意するというのは、主人から委ねられた仕事を守り行うしもべの僕であり、いつ主人が帰って来ても、主人に喜ばれるように用意している しもべのことです。二人のしもべは、表面だけを見るならば同じように見えるのですが、一方は忠実な僕となり、一方は悪い僕となっています。ここで大切な点は「主人に対する愛」です。忠実な僕が主人の帰りを待つことができたのは、主人を愛していたからでした。イエスを愛している人は、イエスに期待しながら待ち続けることができます。自分の事しか考えていない人は、自分に任せられた財産にのみ関心が行ってしまい、主人を愛するまでには至りません。できるならこのまま帰って来なければいいのにと、心のどこかで思ってしまうのです。
このたとえは、当時のユダヤ教指導者たちに向けて語られたものでした。彼らは、神に対する愛よりも表面を繕いながら、儀式や律法だけを握りしめ、本来しなければならない大切な任務を怠っていました。表向きは神殿を守っているように見せながら、内面においては神から離れていたのです。そのような人々に向かってイエスは、信仰の大切な点を強調しておられるのです。
神を愛しているなら、目を覚まし、用意して忍耐強く待ち続けることが出来ます。忠実な賢い僕にとって、主の日は怖いものではありませんでした。心の底から期待しつつ、用意して待つことが出来るのです。そこで重要なことは、共に祈り、交わることです。愛の奉仕によって裏打ちされた知識だけではない本物の信仰です。それこそが、主を愛する者の生き方であり、希望のうちに喜びをもって主の到来を待ち望む姿なのです。