今日の福音は先週の続きの箇所です。そこでイエスは、これから受ける受難について弟子たちに語り、それは父なる神の意志であること、そしてイエスが地上に来られた目的もそこにあることを説明しておられます。
先週の福音(16・13~21)では、イエスがフィリポ・カイサリア地方に行ったときのことが語られていました。
そこでイエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えています。
主よ、あなたこそ救い主メシアであり、生ける神の子であるという信仰を言い表したのです。それに対してイエスは、「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と祝福の言葉を語っています。更に、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とペトロに言っています。教会は、ペトロに与えられたこの信仰を基礎として今でも歩んでいます。その弟子たちとのやりとりの中で、今日の福音も語られているのです。
冒頭(21節)にある「そのとき」とはそのような時のことです。ペトロが、あなたは生ける神の子、救い主であるという信仰を語ったそのとき、イエスは初めてご自分の受難を弟子たちに予告をされたのです。救い主イエスの使命は、十字架の死と復活を通して完全に全うされました。生けるまことの神が人となり、十字架において苦しみを引き受けられたのです。常識では考えられないことです。そこに救いが示されたのです。しかし、このことは弟子たちだけでなく私たちにとっても、神の助けがなければ受け入れ難いことです。イエスの受難を聞いたペトロは、イエスをわきへお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22節)と、主をいさめています。
先週の福音で私たちは、「あなたこそメシア、生ける神の子です。」(16・16)と宣言するペトロの信仰告白を聞きました。そのペトロがここでは、イエスの言葉を否定しているだけでなく、「そんなことを言ってはいけない」とイエスをいさめているのです。あれ程の信仰を告白したペトロも、イエスの受難予告は受け入れることができなかったのです。待ち望まれた救い主、生ける神の子イエスが十字架において苦しみと死を味わい殺されていくなどということを、神が許されるはずがないと思ったのは当然でしょう。ペトロもまた、当時の人たちと同様、イスラエルの民を解放する「栄光のメシア」を待ち望んでいました。ところが、イエスは人々の期待に反して「苦難のメシア」としての道を歩まれたのです。ペトロにとっての栄光は、この世的な意味での栄光でした。「救い主の栄光」という言葉もそのように理解していました。イエスは、イスラエルの民を解放する栄光のメシアである、と考えていたのです。しかしそれは、善意から出たものとは言え、人間の思いでした。
そのようなペトロに対してイエスは厳しい反応をしています。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(23節)。
そして、「わたしの後について来たいなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)。と言っているのです。「自分を捨てる」とは厳しいことばです。本当に自分を捨てることができるとしたらすごいことです。むしろ私たちは自分にこだわり、自分で自分を立てて行こうとする生き方の中で疲れ果ててしまうのです。本当は捨ててしまいたいのに、なかなか捨てることのできない自分があります。いやな自分、惨めな自分があります。そういう自分を抱え込みながら、途方に暮れてしまう者です。
また、私たちの人生には、色々な出来事が起こります。なぜ、自分にこのような苦しみが突然ふりかかるのか分らない苦しみもあります。そのような時、その苦しみの中で私たちは翻弄されます。その現実をどのように受け止めれば良いのでしょうか。
イエスはおっしゃいます。「それは、わたしの十字架である」と。「わたしと共に、あなたもこれを担って欲しい」と。十字架がなくなることが私たちの目標ではありません。たとえどのような苦しみの中にあろうとも、イエスと共に担う十字架に意味があるのです。そのことを信じて生きる時に、私たちの受ける全ての苦しみは、イエスに従う者が背負う十字架となります。イエスご自身が先頭に立って、その十字架を担っておられるのです。私たちは、このイエスの後をついて行くのです。
イエスに従うとき、そこに私たちの負うべき十宇架も見えてきます。しかしそれは、私一人で背負う十字架ではありません。主が準備してくださる十宇架、主と共に担う十字架です。イエスが先立って歩まれる十字架は復活へと続きます。私たちの歩む道は、茨にふさがれたような道であるかもしれません。だからイエスは先頭に立ってその道を切り開き、私たちが後からついて来れるように踏み固めておられるのです。やがて終わりの日に、その道の向こうから、イエスが御父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共にお出でになります。
だから私たちは、これからもイエスの後に従う歩みを続けるのです。思いがけない体験の中で、思いがけない導きを通して、それでも…。主と共に歩ませて頂ける幸いを噛みしめながら。私たちが毎日体験する全ての出来事こそが神に喜ばれる真の礼拝となるのです。