イエスと弟子たちの旅、それは十字架につけられて殺されるためにエルサレムへと向かう旅であることが、ルカ福音書は9章51節で語られていました。この歩みについて来る大勢の群衆に向けてイエスが語った言葉が今日の福音です。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。
厳しい言葉です。しかし、ここで語られていることは、イエスの弟子となるための条件ではなくて、イエスの弟子となった者がその信仰に踏み留まり、生涯を通して神の心を生きる者となるために 何が必要であるか、ということをイエスは語っているのです。
塔を建てようとする人や、戦いに赴く王のたとえからもそのことが分ります。塔を建てるために必要な費用が十分にあるかどうかを先ず考えてから行動しなさいとか、今の自分の戦力で戦っても、相手の戦力に打ち負かされるかもしれないことを十分に予測して行動しなさいという王のたとえ話しなども、このような側面から理解されなければなりません。あるがままの自分を知るということは、福音を生きるためにはどうしても欠けてはならない大切なものだからです。
「自分の持ち物をすべて捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。この言葉を聞くと私たちは、自分にはとても無理…と思うのではないでしょうか。
イエスの語る「… を憎む」という言葉の本来の意味を知らなければなりません。それは、どういう意味なのでしょうか。文字だけを見ると、イエスに従うためには、家族のことなどにかまっていてはいけない、すべてを捨ててイエスに従うことだけを考えなさい…、と言っているように聞こえます。しかし、それは全くの誤りです。イエスがここで語っていることは、憎しみの思いを持つということではなく、「優先して愛すべき方への愛を第一として生きなさい」、ということです。何よりもイエス・キリストの思いを大切にして生きるということです。家族や自分の命を憎め、と言うことではなくて、本当の意味でそれらを大切にし、自分の命も、家族の命をも大切に生きるためになくてはならない、大切な土台がどこにあるかを考えて生きなさい、ということです。
「自分の持ち物をすべて捨てる」という言葉も同じです。自分の持っているものを拠り所として生きることをやめなさい、ということです。それらのものにしがみついて生きるのではなく、神の恵みに依り頼む者であれと教えているのです。自分を頼りにして、そこに安心の根拠を置いて生きてはいけないということです。それはイエスへの信仰と両立しないからです。
私たちにとって、本当に支えとなるものは何でしょうか。様々な試練が襲って来た時に、それは明らかになります。イエスについて来た人々の中にも離れていった人々はたくさんいました。私たちが今問われている事は、あなたが本当に依り頼んで生きているものは何か という事です。自分の命も、家族も、様々な人間関係も、もちろん大切なものですが、私たちがそれらのものを受け止める時、忘れてはならないことがあります。それは、どんな苦しみや絶望の中にあっても、イエスはこの私たちを愛し支えておられるということです。
私たちはまず、このイエスの思いを大切にして生きなければなりません。そうして初めて、他の全てのものを価値あるものとして受け止めることができるのです。しかし、そこには、いろいろな葛藤があります。苦しみや悲しみの中で、神の導きを忍耐して待たなければならないこともあるでしょう。「自分の十字架を背負って…」というイエスの言葉はその事を語っています。辛いこと、苦しいことが自動的にイエスの十字架になる訳ではありません。私たちが、イエスの十字架に繫がって、イエスと共に、聖心に従って自分の十字架を受け止めようとするから意味があるのです。その歩みの中で、全てのものを本来の意味で大切に用いながら生きることが可能となるからです。
神から与えられるこの助けと導きなしに、私たちはこの道を歩むことはできません。人間的な打算や判断が先にあるなら、いつか諦めざるを得なくなります。神と人々への愛を、人間の限られた経験や能力の元に置いてはならないのです。自然的には、人間のあるがままの現実からして、これを生きることは不可能なことでしょう。だからこそ、私たちには主キリストが与えられているのです。その事をしっかりと自覚した上で、イエスが示してくださった道をイエスと共に歩みます。たとえ失敗しても、思い通りに行かなくても、私たちの思いを遙かに超える神の愛と導きがそこにあります。「その道を、あなたも、わたしと共に、歩む者であって欲しい」という、イエスの切実な思いがそこにあるのです。私たちに懇願するこのイエスの声を聞こうとすることが私たちの大切な信仰であり、忘れてはならない任務です。神が造られたすべての被造物も私たちにそのことを語っています。
「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、だれが主の御旨を知ることができたでしょうか。だれが神の計画、主の御旨を悟ったでしょうか。」(第一朗読知恵の書より。)