放蕩息子のたとえ(11節~32節)は、私たちの姿をよく表しています。父の元にいたくなかった息子は、自分が受け取るはずの財産を貰い遠い国に旅立ちます。それは、父にとって大きな心の痛みでした。放蕩息子は、父から貰った財産を使い果たした時、飢饉にも直面して食べるにも困り果てます。そして、お金で大切なものは手に入らないことに気付かされます。彼の心の奥深いところでは満たされることがなかったのです。ある人のところに身を寄せたところ、そこで彼は豚飼いの仕事をさせられます。自由を夢見て家を飛び出した彼は、結局自由を失い奴隷となってしまったのです。食べるものさえなくなった彼は、豚の餌さえも食べたいと思う程になりました。

創世記1章27節で、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」と書かれています。人は、神から離れて本来あるべき自分を生きることはできないのです。放蕩息子は、その壮絶な体験を通して絶望の一歩手前で父のもとに帰りました。父のもとに引き返す恵み…、それがイエスの言う回心です。そのチャンスはいつでも 誰にでも与えられています。

聖アウグスチヌスは『告白』の冒頭で、あの有名なことばを残しました。『告白』は神への賛美のために書かれたアウグスチヌスの自伝です。「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまでは、本当の安らぎを得ることができないのです」。

神から離れた人間は、そのたましいの中心に満たされない穴を持っています。この空白は、神によってしか満たされないものであることに気付かなければならないのです。

放蕩息子の父は、神の姿を表しています。イエスが伝えたかったことは、父と子と聖霊の神が、その全存在を通して私たちを捜し求め、共に歩もうと今も導いておられるということです。息子と呼ばれる資格がないことを知った放蕩息子は、雇い人の一人にでもしてもらおうと父の元に帰りました。しかし、父は、彼を息子として受け入れました。いなくなっていた息子が生き返り、自分のもとに帰ってきた…。その喜びを押さえることができず、急いで肥えた子牛をほふり、祝宴を開いて喜び祝う父の姿です。実は、この「神の喜び」に与るのが、私たちの信仰です。失われたものが見出される。離れていたものが神に立ち返る。神は、そのことを何よりも大きな喜びとして受け止めておられるのです。それまでの放蕩息子は父の悲しみの元でした。しかし今、父の家に戻ってきた息子は、彼がどんなにみすぼらしい姿であろうと、父にとって大きな喜びの元となりました。神の愛と赦しに出会った人々の喜びもそこから生まれます。

しかし、この喜びを一緒に喜ぶことのできない存在があります。それは、放蕩息子の兄です。兄が、畑仕事から帰ってくると祝宴が開かれています。それは、弟が帰ってきたからだという事実を知ったとき、兄は怒り家に入ろうともしませんでした。父親がやって来て兄をなだめようとするのですが、彼は、「私は長年お父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむための子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」と父に強く抗議しています。兄は、弟のことを「このあなたの息子」と呼んで、「あいつは、自分の弟ではない」と突き放しているのです。イエスは罪をどう受け止めているのでしょうか。罪人とは…誰のことでしょうか。その事を考える前に、まわりの人々の反応に目を向けてみましょう。

「そのとき、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は、罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている。』と不平を言いだした。」   (2節)

お気付きでしょうか。あの「放蕩息子の兄」の姿は、ここに登場するファリサイ人、律法学者の姿とも重なるのです。兄は、「私は、戒めを破ったことなど一度もありません。」と、自分の正しさを主張しています。兄が父に、「あなたのあの息子」と呼んだたように、「ファリサイ人」「律法学者」たちは、規則を守ることのできない人々を「罪人」と呼びさげすんでいました。放蕩息子の兄が、「その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」と言って、父親を厳格な人と見たように、ファリサイ人、律法学者たちにとっての神も、人間に義務を押し付け、裁くだけの存在だったのです。しかし、神はそのような方ではないとイエスはたとえを通して語っているのです。たとえ話の中で父親は、兄に、「いなくなった弟が見つかり帰ってきたのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」と言っています。神は、罪人が悔い改めるのを待っておられ、それを何よりも喜ばれる方です。失われた者が回復し、罪人が救われる。その喜びを表わすための祝宴を、誰が差し止めることができるでしょうか。

 ファリサイ人や律法学者たちは過去の人々ですが、救われた喜びの中にある人を冷たい視線で見るなら、それこそが 罪ある私たちの現実の姿です。赦す神との出会いがないなら、罪人を救おうとする神の心も 喜びも理解できないでしょう。イエスは、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た。」と言われました。自分の弱さを認めるところから救いは始まります。他の誰でもなく、この「私」に救いが必要なことを知らなければなりません。すべての人に、この喜びを伝えようとするイエスの思いに支えられながら、新しい一歩を踏み出したいものです。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に大きな喜びがある。」(10節)