イエスは、ある安息日にファリサイ派の家に招待されました。他にも招待された人たちがいて、その多くは律法学者やファリサイ派の人たちでした。彼らが上席を選んでいることに気付いたイエスは語っています。
「婚宴に招待されたら上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。その時あなたは同席の人々の前で面目を施すことになる」。
普通、常識ある人ならこのような場で自分から上座に着こうとはしないでしょう。しかし、この人々は違いました。イエスがここで伝えたかったことは、単なる謙遜の勧めではありません。ただ末席に着きさえすればそれで良いという話しではないのです。大切なことは彼らの心の中です。
そもそも、招待を受けたこの人たちが上席を選んでいたのはどうしてでしょうか。普通は考えられないことですが、彼らは、自分たちこそは上席に相応しい人間であると思っていました。そして、無意識のうちに周りの人を見下していたのです。ですから、たとえ末席に着いていても、彼らの心の中は傲慢な思いでした。これは、単なる食事の席の話ではありません。そこに現われている彼らの心の姿勢です。イエスにとってそれは、信仰を生きる上で見過ごすことのできない大きな問題だったのです。
ここでイエスは、たとえを語っています。婚宴に招待された人の話です。そこで言われる「婚宴」とか「宴会」という言葉は、神の国を現わす言葉です。その神の国に入るのに、誰よりも自分たちこそ最も相応しい人間である…、と考えている人々に対してイエスは語っておられるのです。そこに意味があります。自分こそ、神の国の上座に着くのに相応しい人間であると考えながら生きているとすれば、その人の信仰とは何なのでしょうか。そして、周りの人を裁いているとすれば、それこそ神の国から最も遠い人であると言わなければならないでしょう。それは、先週の福音でも語られていました。
「人々は、東から西から、南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人が先になり、先の人が後になる」(13・29~30)神の国は、あなたがたが考えているようなものではない、とイエスは語っているのです。
神殿で祈るファリサイ派の人と徴税人の話し(ルカ18・9以下参照)でも主は同じ事を語りました。
自分は正しい人間とうぬぼれて、隣の人を見下して祈るファリサイ派の人の姿と、胸を打ちながら遠くに立って、「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」祈る徴税人の話しです。私たちは、神に受け入れられる祈りと心のあり方を、非の打ち所のない立派な生き方からではなく、自分の惨めさに気付き、打ち砕かれた心で祈るあの徴税人の姿から学ぶのです。
イエスの言葉をどのような立ち位置で聞くかによって、受け止め方は大きく変わってきます。果たして私たちは、どちらの立場で聞いているのでしょうか。祈る言葉さえ見つからず、ただ胸をうちながら「主よ、わたしをあわれんでください」と祈るしかなかったあの徴税人の姿こそは、自分の姿である事に気付かされますように…。私たちが憐れみを受け、神の国に入れて頂けるとは、そういうことです。本当の意味でのお返しなど何もできない私たちです。それでも、神はこの私たちを受け入れ、招いてくださっているのです。
やがて 私たちも、自分に注がれた恵みの大きさを知らされる時が来るでしょう。そして驚くことになるでしょう。その時、この世において報われなかったいかなる労苦も、イエスを通して、すべてが救いの完成のために用いられます。これ以上に素晴らしい報いがどこにあるでしょうか。人間の判断に基づくこの世の思いからは発想もできない次元において、私たちは神の国の完成を共に祝う宴会に与る事になります。それは、地上の現実を無視した楽園ではなく、地上の現実や矛盾と今も戦っている人々に向けられた神の約束です。
神の国での祝宴とは、その事を示しています。そこに、お返しできない者を招く神の恵みが満ちあふれています。私たちは、地上にありながら主の前に進み出ることが許されているのです。キリストの聖体の秘跡に養われながら、神の助けを受けるならば、そこから主のみこころを生きる力を頂きます。神の愛を生きる力を頂くのです。その時イエスは言われます。「お返しができないあなたは、幸いである」と。なぜ、そんな私が幸いなのでしょう。それは私たち一人ひとりとイエスとの間で、一生かかって答えを見出さなければならない課題です。そこに信仰の神秘があります。すぐに答えを求めて、自分なりの都合の良い答えを見つけて、そこに留まるなという事です。私たちの信仰の旅路は、これからも続きます。
「主よ、あなたはどなたですか? なぜ、わたしは今ここにいるのですか?これからどこ行くのですか?」… しかし、問いかけても何も聞こえてはきません。どんなに叫んでも答えはありません。それでいいのです。その沈黙の中から、主の思いが伝わってきます。「その問いに気付いたあなたは幸い、あなたはすでに報われている。」という 言葉を超えた主の思いが…。