ました。「悔い改めて、この良き知らせを信じなさい」とは、旧約聖書には、清いものと汚れたものとを区別するための細かい掟が記されています。ですから、何が人を汚すのか、ということは当時のユダヤ人たちにとって大変大きな問題でした。汚れたものに触れるだけでも汚れた者になってしまう、そうすると神の前に出ることができなくなると考えたからです。ここで言われている汚れは、私たちが考える衛生的な問題ではありません。宗教的な問題です。今の私たちには考えられませんが、汚れてしまった人が再び神の前に出るためになすべき儀式や捧げものについても細かく定められていました。今日の話は、当時のそのような考え方を元にして語られています。何千年も前の旧約時代から繫がっている現代の教会は、この問題をどのようにして乗り越えてきたのでしょうか。それは、一言で言えば「イエスの語った福音」のお陰です。

 ファリサイ派や律法学者たちはイエスに言っています。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。汚れた手で食事をしている弟子たちをあなたはなぜ許しているのか。昔の人の言い伝えに従ってちゃんと手を洗ってから食事をするように指導するべきではないか、ということです。彼らが話していることは彼らが考える宗教的な汚れです。自分の弟子たちの汚れを見過ごしているようでは、あなたは指導者に相応しくないと言っているのです。

「食事の前には手を洗え」などと聖書や律法に記されてはいません。それは、ユダヤ人たちが、昔の人々から言い伝えられてきた教え慣習なのです。それに従っていないということを彼らは批判しているのです。それに対してイエスは、「あなたたちは神の掟を捨てて人間の言い伝えを固く守っている。あなたたちは、受け継いだその言い伝えによって神の言葉を無にしている」と語っています。大事なのは神のみ心を知った上で神の望みを生きる事であって、人間の言い伝えやしきたりにこだわることではない。あなたがたは肝心な点を見ないで、人間の言い伝えやしきたりばかりを追い求めている、とイエスは語っているのです。元々、人間の言い伝えやしきたりも、それが生まれた時にはそれなりの理由や必然性があり、その時代には必要だったものです。しかし、時代が変わり状況も変化する中で、何千年も昔の決まりを型どおり生きるだけでは意味がありません。実は、私たちにも同じような傾向があります。歩むべき正しい道を見出すために、お互いの思いを検証し合うことはもちろん大事な事ですが、問題はその批判が、神のみ心に基づいているかどうかというです。誰でも人間には、自分がこれまで大事にしてきたことをそのまま続けたいという思いがあります。そこに人間の弱さもあるのです。ここで問題になっているのも同じ事です。信仰を生きようとするとき、これは特に大切な問題です。神の言葉は常に私たちを新しく造り変えてくれるものです。み言葉に聞き従うとは、自分が変えられることを受け入れるということです。

 正しい者とか汚れた者という区別を設けて、自分たちは清い者として批判的に周りを見てしまう……という傾向は現代の私たちにもよくあることです。科学的、合理的なものの考え方が広まったからといってなくなるものではありません。このような私たちにイエスは、「外からではなく、人の中から出て来るものこそが人を汚すのである」と語っています。食べ物の所為で、人が汚れるようなことはない、と言ているのです。本当の汚れは外からではなく、私たちの中から出て来るものが人を汚すのである」…と。この言葉は重要です。具体的例を挙げて語っておられます。 (7・21~23参照)

 ここに挙げられているものは全て私たちの心の中から、人間の心の中から生まれてくるものです。それらは、水で洗って落とせるようなものではありません。ですから、外側をいくら一生懸命に洗い清めても、それで清い者となることはできないと語っているのです。では、私たちはどうすればよいのでしょうか。宣教の初めにイエスが語った言葉にヒントがあります。

「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15参)。

 神の愛による救いの計画が今や実現し、あなたがたを捉えようとしている、そこにこそ目を向けなさいと言うことです。ここにイエスの教えの根本があります。救いは、私たちが自分の心を洗い清めることによってではなくて、神の愛に出会うことによって実現します。その神の救いの計画が、今やイエス・キリストによって実現しようとしている、それが「神の国は近づいた」ということです。そのためにイエスは、十字架さえも引き受けて下さい神の恵みの下に身を置いて生きなさい、ということです。洗礼や聖体の秘跡を初め、私たちが頂いている秘跡の恵みはこの恵みを体をもって味わいつつ生きるため、イエスが用意して下さったものです。

 独り子の命を与える程の神の愛に生かされている自分に気付くとき、周りを見る目も変えられてきます。人と比較して一喜一憂するのでなく、自分と同じように神様の恵みの中に生かされている者として人を見つめ、その人に与えられている恵みを感謝する、ということが起ります。それが「良い目で人を見る」ということです。イエスが私たちを見つめて下さる目で、私たちも自分自信と周りの人を見つめて歩むことが出来ますように……。