「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」(31節)

 ティルス、シドン、デカポリス、これらの土地はユダヤ人の地ではなくて異邦人の地です。イエスはそれらの地を回って、ガリラヤ湖へ帰って来られました。これらの地で福音を宣べ伝えたとは語られていませんので、この旅は弟子たちとの交わりを深めるためだったのではないか思われます。弟子たちと親しく語り合い、彼らに大事なことを教えようとしておられたのではないでしょうか。イエスが覚悟を決めて弟子たちに伝えようとしておられる大事なこととは言うまでもなく、イエスがこれから受けようとしておられる十字架上の苦しみをと死、そのことを通して神の救いの計画が実現していく、ということです。

 ガリラヤ湖へ来られたイエスのもとに、人々は「耳が聞こえず舌の回らない人」を連れて来て、その人の上に手を置いてくださるようにイエスに願っています。イエスは先ず、この人だけを群衆の中から連れ出しました。

イエスの奇跡は、人々を驚かせるためのものではありません。むしろ、イエスはご自分のなさる奇跡をできるだけ人々の目から隠そうとしておられます。それは、癒しの業を、癒される人との一対一の関係の中でなさろうとしておられるからです。イエスとの真の出会いの中でこそ癒しは行われるものであって、その出会いなしに病気が癒されただけでは意味がないのです。

  「イエスは、天を仰いで深く息をつき…」祈るイエスの姿です。私たちのために御父に祈るイエスの呻きとも言えるでしょう。パウロもロマ書で言っています。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ロマ書8・22,23)この呻きは、「深く息をつく」と同じ言葉です。またコリントの信徒への手紙二の5章2節には、「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」とあります。これも「深く息をつく」と同じ言葉です。

「深く息をつき、苦しみもだえるイエスの姿」、それは罪と死の力に支配されているこの世の現実の中で、呻きながら、苦しみながら、どう祈ったらよいのか分からない私たちのために、言葉に表せない「呻き」をもって執り成しておられるイエスの姿です。

 私たちの耳は開いているでしょうか。聞くべき言葉を聞くことが出来ているでしょうか。言葉は、私たちが交わり、支え合って生きるようにと神から与えられた恵みの賜物であるはずなのに、私たちは言葉によって人を傷付けてしまい、また自分も傷付いてしまっています。その原因は、神の言葉を相応しく聞くことが出来ていないからです。み言葉によって私たちは自分の弱さに気付かされ、神の方に方向転換して生きる事を学ぶのです。神の言葉は、私たちを真実に生かす命の言葉です。ですから、私たちの心を鋭く刺し貫く言葉ともなるのです。本当に聞くべきことを聞くことができず、本当に語るべきことを語ることができない私たちにイエスは関わってくださっているのです。「エッファタ」…それは、単に耳が聞こえるようになれというだけのことではありません。自分に思いによって捕らわれてしまっている私たちに対するイエスの篤い思いです。それでも、イエスの存在と祈りがあるから私たちは、様々な限界がありながらも、信仰を生きることができるのです。イザヤは預言しています。

「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(35章5~6)

 私たちは、神のみ言葉を、自分に語りかけられている恵みの言葉として聞き取れているでしょうか。単なる人生訓ではありません。イエスが耳を開いて下さらない限り、私たちを生かす力は生まれてきません。聖霊は、今もうめきをもって私たちとのために執り成して下さっています。イエスが耳を開いてくださるから私たちは救いの恵みのすばらしさをほめたたえることが出来るのです。私たちの語る言葉が、自分をも他の人をも生かすこと恵みの言葉となりますように…。