「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」(60節)

 これは弟子たちの言葉です。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」ということまで書かれています。

 ヨハネ福音書は、それが書かれた紀元1世紀頃の教会の状況を反映していると言われています。イエスについて来た人々の中にもイエスへの信仰を失い、離れ去っていく人々が出ていたのです。ヨハネ福音書はその現実を見つめつつ書かれています。この現実は、今の私たちにとっても重大な問いかけです。

「あなたがたも離れて行きたいか」というイエスの問いは、1世紀末の教会が直面していた問いでもあります。多くの人々が脱落していく中で、あなたはどうするのかと彼らはイエスから問われているのです。

 エジプトにおける荒れ野の体験を経てイスラエルの民は、モーセから信仰の決断を求められました。そのような問いの前に私たちも立たされます。誰を救い主と信じ、誰に従って生きるのか、それは信仰をもって生きるために必要なことだからです。私たちにとって、イエスこそが救い主であり、このイエスと共に生きることが信仰なのです。イエスのもとを離れて行った人々は、イエスの言葉を聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言っていますが、彼らがそう思ったのはなぜでしょうか。

「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」(ヨハネ6・54~55)というイエスの言葉に彼らは躓いたのです。この言葉は明らかに、最後の晩餐でのイエスの言葉を意識しています。聖霊降臨後、誕生した教会において最後の晩餐を記念するパンと杯の儀式は行われていました。そこから信仰を生きる力を頂いていたのです。パンと杯に与ることによって信仰に生きていたのです。

人々がイエスの躓いたのは、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」というイエスの言葉に対してなのです。それは、イエスが神であるということです。「そんな、ひどい話は聞いていられない」と言ってイエスから離れていったのです。

 ユダヤ人たちは、旧約聖書に基づいて救い主メシアが神から遣わされるという希望を抱いていました。彼らが待ち望んでいた救い主は、モーセのように自分たちを他国の支配から解放してくれる指導者として待ち望んでいたのです。神は天におられる主なる神お一人であって、モーセは神から遣わされた人間です。彼らはイエスのことをこのモーセと同じように捉えていたのです。だからイエスが五つのパンで五千人を満腹にした、という奇跡を行ったことも、彼らは、モーセが荒れ野で天からのパンであるマンナを人々に与えたという出来事と重ね合わせて見ています。イエスもモーセと同じように、イスラエルの民にパンを与え、空腹を満たし、導いてくれる、そういう指導者だと思っているのです。ところがイエスは「わたしは天から降って来たパンである」「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とおっしゃるのです。つまり、私は地上のパンを与えてあなたがたを満腹にする者ではなくて、私自身が天から降って来た者、つまりまことの神であり、私というパンを食べることによってあなたがたは永遠の命を得るのだ、と言っておられるのです。言い替えれば、多くの人々は、イスラエルを他国の支配から解放し、食物を与え、神の民のこの世の生活を導いてくれる偉大な人間としての救い主イエスを信じ、期待していたのに対して、イエスご自身は、人間となってこの世に来られた独り子なる神であり、ご自身の命を与えることによって人々に永遠の命を与えて下さる救い主であられた、つまりイエスにおいて、あの3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉が実現する、そういう救い主だったのです。イエスがこのようにご自身を、天から降って天へと帰って行く真の神であると語られたことに対して多くのユダヤ人が、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と躓き、去って行ったのです。そこには、一人の人間であるイエスが神であるはずはないという思いだけでなく、イエスは自分たちの期待していたような救い主ではなかった、という失望もあったのです。これが紀元1世紀末の教会において起っていたことです。同じ問題はいつの時代にもあります。イエスを救い主と信じることにおいて、私たちも同じ問いの前に立たされるのです。

私たちに本当に命を与え、私たちを導くのは聖霊です。聖霊によってこそ、イエスの語った「わたしは天から降って来たパンである」という言葉の意味も分らせて貰えるのです。肉は何の役にも立ちません。イエスを救い主と信じる信仰は、聖霊の働きによって神から与えられる恵みです。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのである」という言葉はそのことを語っています。

人間の思いや理性によってイエスの言葉を捉えようとする多くの人々は、イエスの言葉に躓き去って行きます。彼らは、イエスが神であると信じることができず、弱い者、貧しい者、空腹な者にパンを与える人間イエスの姿しか見ていません。この人々に「あなたがたも離れて行きたいか」と聞いています。「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています』」。このペトロの信仰の上に私の教会を築く、とイエスはおっしゃいました。多くの者が去っていく中で、「私たちの行くべき所は、あなたの元にしかありません。」と言うのが教会の信仰です。この信仰は、人間が考えた結論ではなくて、神が聖霊によって与えて下さる恵みの賜物です。聖霊の働きを祈り求めるところから始めなければなりません。十二人の弟子たちも、イエスによって選ばれ招かれてここまで来ました。私たちも同じです。イエスによって選ばれ、招かれてここにいるのです。しかし、主に選ばれたはずのその人々を通して、イエスはやがて十字架に向います。福音書は、イエスを裏切ったユダとイエスへの信仰を告白したペトロの姿を通して、人間の思いを超えた神の救いがどのように実現したかを伝えています。