「あなたがたはわたしを何者だというのか」……、このイエスの問いかけは私たちにも向けられています。私たちは生涯をかけてその答えを探し求めているのです。そこに終りはありません。

ペトロは答えています。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。イエスは、救い主としてこられた方です。イエスの後に誰かを待つのではありません。イエスこそ、十字架の死と復活においてその使命を全うされました。しかし、まだ完成はしていません。私たちはイエスが再び来られる時を待ち望んでいます。その時、救いのみ業は完成します。その時を私たちは待ち望んでいるのです。このイエスこそ、メシアであり、キリストであるとペトロは告白しているのです。まだ完成には至っていないけれども、イエスを通して神の国は向こう側から私たちの世界に、既にもたらされているということです。

メシアとは「油注がれた者」という意味です。ユダヤ人にとっては救い主を意味します。旧約時代から人々は救い主を待ち望んでいました。このメシアをギリシア語に翻訳したのがキリスト、という言葉です。イエスこそ、待ち望まれたキリストだからです。神の独り子が、まさに、救い主としてこの世に来られたのです。罪に支配されたこの世界の直中に、イエスは来られたのです。このイエスを通して、神の救いの新しい計画、決定的な出来事が始まりました。そしてイエスは私たちを、ご自分の祝福の中に置いて下さいました。それは、人間の常識を超える恵みの出来事です。だれ一人想像すらできない驚くべき仕方で、神は私たちに命の道を開いてくださったのです。

 「あなたはメシア、生ける神の子です」。これは、人間の知識によって到達する答えではありません。ただ天の父が、聖霊の力によって私たちの目を開き、私たちにご自身を現してくださった真理です。何も分ってなかったペトロが、これ程の信仰宣言ができたことは大きな驚きです。しかし、そこに神の恵みと聖霊の導きがあります。イエスはペトロに言っています。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられるわたしの父なのだ」。イエスは続けて「わたしも言っておく。あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と。

これ程の恵みを頂いたペトロであっても、イエスの十字架を前にして三度もイエスとの関わりを否定しました。「主よ、あなたのためなら牢獄に入れられることも、殺されることさえも受け入れる覚悟です。」(ルカ22・33)と叫んだあのペトロがどうして…。イエスとの出会いは何だったのでしょうか。

これが、人間の現実です。しかしイエスは、ペトロの弱さを知っておられます。同時に、その立ち直りを信じているのです。だから、この弱いペトロに大きな使命を託されました。ペトロ自身は真に不確かな存在です。しかしイエスは、ペトロの告白を支えながら、ペトロを受け入れているのです。ここに、私たちの現実があります。人間は、弱さの中で神の前に立たされる時、新しい力を頂きます。自分の弱さと限界を自覚できるようになったペトロの信仰を土台として教会も生まれます。イエスは彼に「教会の鍵を与える」とまで彼に約束しています。イエスに直面したとき、ペトロは信仰が何であるかを知ったのです。その後、何度もイエスを裏切りながら、「主よ、私はあなたの弟子と呼ばれるには真に相応しくない者です。」と叫びながら、イエスの足下に平伏すペトロの姿。そこに私たちのあるがままの姿と信仰があります。イエスは彼に、教会の鍵を託しました。同じように、弱く不確かな私たちも、イエスによって、主の教会を支える生きた石となるよう招かれてここにいるのです。

洗礼を受けるとは、このイエス・キリストと一つに結び合わせられることです。罪に死に、神のものとして生まれることです。イエス・キリストによって、陰府の力は打ち払われました。陰府の力、死の力であっても、イエスに対抗することはできません。私たちはやがて地上の生涯を終え、終わりの時を迎えるでしょう。しかし、もはや死は勝利に飲み込まれています。死はもはや私たちを支配しません。私たちは、イエス・キリストのものとして、神の民として生きる時、死さえもイエスの復活の命へと繫がる恵みを信じています。死ぬことのない神が人となら、十字架の上で死ぬ者となり、そして復活されたというイエス・キリストの生涯には大きな意味があります。イエスの復活は、死の力を討ち滅ぼしました。親しかった友人や知人、家族と別れることは大変辛いことです。しかし私たちは、何としても私たちを救い出そうとするイエスのあの約束にいつも結ばれているのです。

ペトロの体験から私たちが学ぶことは、人間の限界の中で働くイエスの思いです。不確かな私の中にあって、私に代って信じてくださるイエスがおられるのです。そのイエスが私に代って私の中で祈り、信じてくださっている。だから私も安心して委ねることができるのです。本当の信仰は、私たち人間から生み出されるものではありません。私の中で今も働いておられる主ご自身から分けて頂く恵みです。

「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16・17)