当時、ユダヤ人たちは律法を守って、正しい人間にならなければ救われないと思っていました。そのような人々に、イエスはたとえを通して 自力で天の国に入ろうとしても無駄である事を教えておられます。私たちは、神からの救いを自分に都合の良いように解釈しているかも知れないからです。そのこと自体、実はおかしいとおっしゃっているのです。自分の不完全さを自覚すること、そこにこそ、福音を理解する第一歩があるのですが、それに気づく人は少ないとおっしゃいます。言うまでもなく、本当の救いはイエスのうちにあります。イエスの死と復活によって、はじめて「救いの扉」は開かれました。そこから入るようにと、イエスは私たちを招いておられます。

 「アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてすべての預言者たち…」(28節)、この人々は、神からの呼びかけに答えた人々です。先行きどうなるか分からない不安の中で、それでも彼らは神から示された道を旅立ちました。(創世記12章参照)それが、イエスの言われる狭い戸口から入る生き方なのです。

 神の国に入ることができなかった人々のことも語られています。それは、どういう人々のことでしょうか。よく見て下さい。罪を犯した人々のことではなく、神の招きを受けているのに、イエスが示された戸口から入ろうとしない人々のことです。招きは全ての人々に与えられています。しかし、イスラエルの人々はこれに応えませんでした。だから、異邦人が先に入るということが起るのです。神の招きに応えるかどうかは私たちの決断に委ねられています。「後の者が先になり、先の者が後になる」(30節)ということがそこで起こります。

 罪のない人々ではなく、むしろ罪深い者、様々な問題を抱え嘆き悲しんでいる人々をこそ、神が招いておられるというのは重要なことです。安心して下さい。私たちは、弱く貧しい罪人でありながらも、イエスの復活に与る新しい命を約束されているのです。イエスの十字架と復活があるからです。イエスこそは、最も狭い戸口から、深い苦しみの道を通って私たちの救いを実現して下さった方です。イエスが開いて下さった道を通って私たちも本当の救いに与ります。そして、イエスと共に、御父に向かって信仰の旅路を踏み出すことが出来るのです。

 「狭い戸口から入るように努めなさい」…。そこには戦いもあるでしょう。しかし、決して誰かを蹴落とすための戦いではありません。信仰を生きる上での自己との戦いです。私たち自身の信仰の決断です。人間の思いを基本にした、自分なりの救いを考えて、一生懸命生きてもそれは福音ではありません。それは人間の思いなのです。ある人が「救われる者は少ないのでしょうか」と質問していますが、大切なことは数の問題でもないのです。もし、少ないとすれば、それは神が厳し過ぎるからではなく、神の心を理解し、神の思いに委ねて生きようとする人が、あまりにも少ない事をイエスは嘆いておられるのです。その事を自覚させるために、父の定められた時があります。

 「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」。(25節)

 主人が戸を閉め、鍵をかけられたなら誰も中に入ることができません。ここに、このたとえのポイントがあります。戸口が閉められる時が来るのです。それは、イエスがもう一度来られる時です。そのことを私たちの人生において示しているのが、私たちの死の時です。

 19主日の福音、“目覚めて主人の帰りを待つ僕“ のたとえ(ルカ12章)でもその事が語られていました。信仰を相応しく生きるために、時を見分ける恵みが必要なのです。いつか分からなくても、信頼して約束の時を待つのです。そして、与えられている今をしっかり生かしなさい、とイエスはおっしゃっています。主人、つまり神が戸を閉めてしまってからでは、もう遅いのです。「御主人様、開けてください」と、いくら叫んでも もう遅いのです。「わたしたちも、あなたと一緒にいたではありませんか。広場で一緒に教えを受けたではありませんか」と言っても、「お前たちがどこの者か知らない」と言われてしまうのです。

 イエスのもとで、その教えを聞いていたにもかかわらず、彼らに欠けていたもの、それは、イエスの示される道、狭い戸口から入ることを知らないということです。本当の意味で、イエスによる救いに与ることを知らなかったのです。この人々は、悪いことをした人々でもありません。大きな罪を犯した訳でもないでしょう。彼らは、イエスと一緒に食べたり飲んだりもしました。イエスとの交わりもそれなりにあったでしょう。イエスの言葉を聞いて感動し、自分なりに良い行いに励んだかも知れません。しかし、彼らはイエスの語る救いの意味を知らないのです。

 それでは、どのような人々が救いにあずかるのでしょうか。

「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」のことが書かれています。彼らは、イスラエルの民の先祖です。神の民の代表としてこの三人の名があげられています。ここで、外に投げ出されている人々とはどういう人の事でしょうか。彼らもイスラエルの民です。しかし、血筋によって神の国に入るのではありません。彼らは、神の呼びかけに応えて旅立ちました。自分の計画が保証されたからではなく、どうなるか全く分からない中で、主の示される道を不安の中で神と共に歩んだのです。それが、狭い戸口から入った人々の事です。彼らも私たちと同じように弱い人間でした。神の国とは、そのような人々のためのものだとイエスは語っているのです。

 イエスが町や村を巡って教えておられたこと、それは神の国の福音です。その福音の言葉は、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4・21)と言われました。このイエスの歩みは、エルサレムへと向かっています。そのエルサレムで何が起るのか…、それはイエス逮捕から始まった一連の出来事です。イエスは今、そこに向かっているのです。そこに、全人類を救おうとする神の思いがあるのです。罪のない正しい人を招くためにイエスが来られたのではない、とはそういうことです。これは大変重要なことです。罪人である私たちを招くために、十字架の死という、イエス以外の誰も通ることの出来ない狭い道を通って、イエスは神の国の戸口を開いて下さったのです。

 それは確かに狭く、決して平坦な道ではないでしょう。しかし、イエスが招いておられるこの戸口が一番安全な道である事も事実です。私たちが体験する苦しみや悲しみの全てが、イエスも体験した苦しみ悲しみを通して、神の救いの中に置かれます。そして、昔アブラハムが歩んだ信仰の旅路を、イエスと共に歩むようになるのです。そこに、私たちを救おうとする神の思い、人の思いを遙かに超えた神の救いへの道が開かれてきます。