明けましておめでとうございます! マリア様の祭日から始まった新たな一年、お生まれになった幼子の祝福と聖母の御保護をお祈りいたします。

 この幼子は、「あなたがたのための救い主」であると福音書は語っています。この方にお会いするために、羊飼いたちは大急ぎで出かけました。私たちも同じです。神が貧しい者を選び、「大きな喜び」を与えようとしておられるのです。この喜びは、神から私たちに与えられる出会いの確かな「しるし」であると天使は告げています。乳飲み子を探し当てた羊飼いたちを想像してみてください。彼らは、救い主の誕生という大きな喜びを、お生まれになった幼子の中に確認しているのです。飼い葉桶に寝ている幼子イエスを見たとき、彼らの喜びは確かなものとなりました。それは、人間に作り出せる喜びではなく、神ご自身がお与えになる喜びです。人間は、様々な形で神からの語りかけを受けます。それは神が私たちを選び、私たちの人生に介入して来られる時です。そのことによって私たちは戸惑いや不安を感じるかも知れません。「民全体に与えられる大きな喜び」と言われても、それが喜びの出来事であると私たちに認識できるかどうかも分りません。おそらく、自分とは関係ない事のように感じるでしょう。しかし、羊飼いたちのように、「もし、この出来事の中で主が共に働いておられるのなら、その出来事を見ようではないか」という思いによって出かけて行くなら、その中で飼い葉桶に寝かされている幼子を見つけるのです。そして、天使が語ったあの喜びの意味を理解していくのです。主が教えて下さった恵みの出来事を体験するために私たちも教会に集まります。そこで私たちは、救い主である神の御子を見出すよう招かれています。ミサにおいて私たちはこのしるしを見ています。そして「神をあがめ、賛美しながら」それぞれの生活の場へと帰って行きます。

 神を賛美する天使たちの賛美の歌に声を合わせて、羊飼いたちも歌いました。彼らは、イエス誕生の中に神の栄光を見ています。神の御心に適う者となるよう招かれていても、私たちが立派な人間になって、御心に適う者となれという意味ではありません。それは、イエスを通して私たちに与えられる恵みです。そこにもたらされる恵みによって、互いの間に平和を築いていくことも可能となります。それが地上の平和です。イエス・キリストの十字架と復活は、神の栄光と地上の平和を結びつけ実現させる土台です。羊飼いたちがそうであったように、この救いの恵みに気付かされた私たちも「天においては神に栄光、地には御心に適う人々に平和」という神への賛歌を、実際に生活の中で生きる使命を与えられているのです。

 羊飼いたちは天使が話してくれたことを、飼い葉桶を囲んでいる周囲の人々にも知らせました。これを聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思い驚いたと書かれています。それは、私たちの間でいま起っている驚きでもあるでしょう。

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」…。このマリアの姿は印象深いものです。マリアは、救い主の誕生という出来事を誰よりも身近に体験した最初の人です。そのマリアが、羊飼いたちから聞いた言葉を心に納め、思い巡らしているのです。このように、マリアの生涯は、神が行われる救いのみ業を思い巡らしつつ歩む生涯でした。マリアほど主の降誕の神秘を魂の深いところで受け止めた人はいないでしょう。しかし、そのマリアが今は沈黙しているのです。それはなぜでしょうか。

 自分の身に起こった一連の出来事を心に納め思い巡らすマリア。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」というエリザベトの言葉を重く受け止めながら…。生まれた幼子を見つめながら…。マリアは今、体験した一つ一つの出来事を心に納め思い巡らしています。天使が告げた言葉、そして親類エリザベトとの喜びの出会い、泊まる所もなくベツレヘムの家畜小屋で生まれた幼子。その子を飼い葉桶に寝かせるしかなかった現実…などを思い巡らしています。

 羊飼いたちの話を聞いた人々の反応は、不思議に思い驚きをもって受け止めることはあってもそれでお終いでした。しかし、マリアはそうではありません。マリアは、「これらの事」を心に納め思い巡らすのです。ここに大きな違いがあります。神がなさったことを不思議に思い、驚きつつも、その奥にあるメッセージを心の奥で受け止めようと、自分に起こった出来事を心で温めながら思い巡らしているのです。このマリアの姿は、他の箇所にも登場します。少年イエスと共に、エルサレムへの巡礼の旅をしていた時マリアとヨゼフはイエスを見失います。その後、神殿で学者たちと議論していたイエスを見つけた時、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」というイエスの言葉を聞いた時も、マリアは驚きながらその言葉を心に納め思い巡らしています。(2・51)

 イエスは、母マリアをご自分の真の母として受け止め愛し抜きました。そのことが一番よく分かるのが十字架の場面です。それは、マリアにとって最大の試練の時でもあります。そのマリアにイエスは弟子のヨハネを示しながら、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と語りかけています。(ヨハネ19章26)この時イエスは、母マリアを教会に委ねました。このマリアを中心に教会が生まれます。人生は、思いがけない出来事の連続です。その中で、これまで別々の事でしかなかった一つ一つの出来事が、ある時一つの線になって繫がったならば、そこで私たちは、マリアのように神の働きを見る事になります。それはどれ程嬉しい体験でしょうか。私たちにとって、それまで別々の体験でしかなかったものがその時、降誕の神秘も十字架と復活の神秘も一つに繫がるのです。

 マリアはイエスの母となる恵みを受けた時から、自分では受け止められない経験をしています。それら一つ一つの出来事を、その後何十年という時間を掛けながら繋ぎ合わせていく歩みがマリアの生涯でした。その中で ついに、すべての出来事が一つに繫がる経験をしているのです。マリアは、直ぐには理解できなくても、静かに考え続け問い続けました。それは単なる知識ではなく、信仰を深め神の思いを知るための貴重な経験となっていくのです。イエスを見失うという予想外の悲劇さえも、マリアとヨセフはその体験を通して、神の計らいを知る貴重な恵みの体験として深めていきます。

 最後にマリアは、自分が生んだ子供が十字架の上で処刑される体験までしています。それは、シメオンが語ったように「心を剣で刺し貫かれる体験」であったことでしょう。生まれてくる赤ん坊に、そのような苦しい未来が定められていることを前もって告げられた母マリア。それでも その子をこの世に生み出す使命をあえて引き受けているのです。その上で彼女は、「わたしは恵まれた者」と語っているのです。並大抵の決断で出来ることではありません。天使が告げたように「いつも主と共に生きた」マリアだったからこそ出来た恵みです。

 み言葉を思い巡らしながら心に納めるマリア、その生涯はまさに、「流れのほとりに植えられた木」のようです。(詩編1・1~3) いのちの水は絶えず流れています。マリアは、その神に自分を委ねて生きる決意をしました。「わたしは主のはしため。お言葉どおり、この身になりますように。」(1・38)この有名なマリアの言葉は、別の言葉で表現するなら「ここにわたしがいます。取るに足りない不肖者ですが、あなたの必要のために どうぞこのわたしをお使いください」というマリアの信仰から溢れ出た祈りの言葉なのです。「恵まれた者、神から祝福された幸いな者」と聖書が語る人々の生き方がここに示されています。

 昨年も、いろんな事がありました。今年はどんな年になるのでしょうか。私たちには分りません。今でも戦争は続いています。そのような私たちの現状に心を痛め、祈っておられる母マリアの存在を忘れてはなりません。「あなたがたは不完全だから、今のあなたがたには欠けたところがあるから駄目だ…」とはおっしゃいません。本当に幸いな者とは、神の言葉を聞き それを生きようとしている人々のことです。悲しみの真っ只中にあっても、私たちはマリアと共に幸いな者として生きることができるのです。誰がどう言おうと「あなたもまた、神の心を生きようとしている幸いな者」とマリアは語っておられます。そのためにマリアは、「平和の元后」として私たちと共に歩み、教会のために今もいつも祈っておられる方です。新しい年もこの救いの恵みを思い巡らし主と共に生きる恵みの年となりますように…。