「闇が地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。」(第一朗読イザヤ60)そのような中で、それでもイザヤは語ります。「エルサレムよ、起きよ、光を放て」と。神からの光を受けた者は、地上の闇に呑み込まれてはならないのです。その光をまわりの人々にも知らせる使命があるのです。イエスも、「あなたがたは、世の光である」と言いました。(マタイ5:14)しかし、自分の中にそのような光があるのではありません。主ご自身から光を受けて照らすのです。

そのとき、何が起こるのでしょうか。「目を上げて、見渡すが良い。みな集い、あなたのもとに来る。… そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる」。

それは、長い間苦しめられていた人々が闇と絶望の深い淵から立ち上がり、神からの呼びかけに答えてもう一度立ち上がろうと誓った日です。私たちは、いろいろな苦しみを経験します。そのような中にあっても神に希望を置くということを忘れてはならないのです。神は私たちを、必ず助けると約束して下さいました。その呼びかけが、私たちのもとにも届いているでしょうか。 神は、生まれた幼子を通して全ての人々にこの光を輝かせました。公現祭は、その神の心を思い起こす日です。お生まれになった幼子の中に、神の約束を見る日です。

第一朗読のイザヤ書は、バビロン捕囚から帰国した民に向かって語られています。異国の地にあって過酷な体験をした彼らに向かって語られた言葉なのです。あなたの苦難の体験を光に変えて生かすことこそ神の望みだと言うことです。根底から揺すぶられるような危機の中にありながらも、現実から目を逸らすことなく神の呼びかけに応えて生きよ。その過酷な現実の只中に神はおられる。そこで私たちと共に痛み、喜びを体験しておられる神を見出す者であれという呼びかけなのです。その神の栄光が全ての人々に示される日を彼らはどれほど待ち望んだことでしょう。「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。」(イザヤ60・6節)かつてイザヤが語ったこの言葉は、幼子を拝みに来た東方の三博士たちを通して実現したとマタイは語ります。

第2朗読では、「啓示によって知らされた秘められた神の計画」(エフェソ3章)が語られます。神の救いの神秘…。それは、本来ならば人間には伺い知ることのできない神秘です。それが、主ご自身によって明らかにされました。「この計画は、キリスト以前の時代には知らされていませんでしたが、今や“霊”によって啓示されました」(5節)と、パウロが語っている奥義です。これほどの奥義が私たちに示されていること自体大きな驚きとしか言いようがありません。この恵みは、主のからだである教会が、一致して神の国を受け継ぐ者となる恵みと深く関わっています。神からの救いの恵みにおいては、「共に」という事は大切です。全ての人が、福音において一つの体、一つの心となって、初めてもたらされる恵みなのです。この神の救いの計画に奉仕するために、キリスト者は召されています。

ルカは、幼子のもとに来る羊飼いたちの姿を描きました。(ルカ2章参照) マタイは、占星術の学者たちを通して異邦人の側から救い主誕生の意味を語ります。

「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となる。」

この学者たちの姿は、未来のキリスト者の先駆けです。彼らを通して、諸国の民が神の救いに与る計画が、いよいよ明らかにされようとしているのです。

マタイは、学者たちの訪れを預言の成就と受け止めています。生まれたばかりのこの幼子は、ヘロデから避難しなければならなくなります。この幼子はすでに、「受難の道」を歩み始めているのです。学者たちも、様々な危険を体験しながらやっと見つけた救い主でした。その方は、暖かな宮殿にではなく家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされた幼子だったのです。その幼子を礼拝しながら贈り物を捧げています。そこに信仰の神秘が示されているのです。これは、信仰があって初めて分る神秘です。

学者たちを導いた暗夜の星…、それこそ私たちを照らし導く星、一人ひとりの心の中にあって今も働いている星です。私たちの信仰は、この星に導かれながら、博士たちと共に光を探し求めて歩む暗夜への旅です。闇が深いほど、この光は一層輝きます。

光である方が、向こう側から私たちのもとへ来られました。私たちに求められていることは、「起きよ、目覚めよ、光を放て、」という事です。いかに地上を闇が覆い尽くそうと恐れることはありません。「わたしは、世の光。わたしに従う者は、決して暗闇の中を歩かず、いのちの光を持つ」と語るイエスがおられるからです。(ヨハネ8:12参照)これは主の約束です。その光を受けて私たちは歩むのです。弱さゆえに生じる私たちの躓きさえも、そこではいつしかイエスを証しする恵みに変わります。イエスと共にあるなら闇も暗くはなく、「夜も昼のように輝く」のです(詩篇139:11-12)。 この光が今、私たちのもとにまで降りて来られたのです。

私たちの存在が世の闇を照らす神の輝き、イエスの香りを運ぶ助けとなる…、それは神が望んでおられることです。何という恵みでしょうか。

博士たちの来訪をもとに作られた「もう一人の博士」四人目の賢者(ヴァン・ダイク著)という短編小説があります。

三人の博士たちと同様に、星の動きに救い主の誕生を見た博士アルタバンは、救い主に会うために全財産を売り払い、サファイア、ルビー、真珠を手に入れ旅に出ます。しかし、その旅の途中で瀕死の男に出会い、その男を助けている中に一緒に行くはずだった三博士たちと出会う日時にも遅れてしまいます。アルタバンは、一人で砂漠を渡るために必要な物資を揃えるため、用意した宝物の一つを売らざるを得なくなりました。そして、三人の博士との待ち合わせ場所まで急いで馬を走らせました。ところが途中、ある村を通る時、重い病気で死にかかっている人を見かけます。急いでいたアルタバンは、一旦通り過ぎましたが、引き返して病人に応急手当をし、十分な食料も与えます。その後、すぐにまた馬に乗り道を急ぎました。しかし、約束の場所に着いた時にはもう、三人の博士たちはすでに出発した後でした。そこに書き残された博士たちの手紙に基づいて、彼はようやくベツレヘムに着くのですが、そこでも聖家族はもうそこを立ち去った後でした。

子供を寝かしつけていたある母親が、この3日間ここで起こった不思議な出来事をアルタバンに告げます。「あなたが探しているその方は、もうこの村にはおられません。両親といっしょに夜の間にエジプトに逃れたのです。」そこへ、ヘロデから遣わされた兵卒たちが子供たちを皆殺しにするためにやって来ます。母親は恐怖に怯え、赤ん坊を抱いて逃げ惑いますがどうすることも出来ません。その時アルタバンは、ルビーを隊長に渡しながらこの母子の命を助けるように願います。彼はルビーをひったくると、兵卒たちに他の家を探せと命令しました。こうして、一人の赤ん坊の命が救われたのです。

アルタバンが、イエスを探し続けるために出発してから33年が経過したある日、イエスがエルザレムで磔刑に処されようとしているという話しを耳にします。これまで長い間探し求めていたイエスの情報です。そのイエスが今殺されようとしている。いても立ってもいられなくなった彼はイエスを助けようと、ゴルゴダの丘へと急ぎます。しかしその旅の途中、若い女性が借金のかたに奴隷として売られようとしている現場に遭遇します。心を痛めたアルタバンは、イエスを救うために最後に持っていた真珠を手放してしまいます。これで、彼の手元にあった宝物は全てなくなりました。もしかしたら、これでイエスの命を救えるかも知れないと期待していた最後の宝物でした。

その時…、激しい地震が起こり、瓦がアルタバンの頭上に落ちます。死に瀕したアルタバンは、ついにイエスの声を聞きます。彼は言います。「おお、主よ。わたしはあなたにお会いするために、何十年も旅をしてやっとここまで来ました。かつてあなたのもとを訪ねたあの幸せな三博士たちのように、わたしもあなたに宝物を捧げようとここまで辿り着きました。しかし、今のわたしにあなたにお捧げできる物はもはや何もありません。」これに対するイエスの言葉は感動的です。「アルタバン、わたしはずっとあなたと一緒にいた。わたしの兄弟であるこれら最も小さい者の一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたことなのだよ アルタバン。わたしはあなたが気付くよりもずっと以前から、あなたと出会っている。」

四人目の博士アルタバンの話しは、救い主との出会いが何であるかを教えてくれます。彼が地上に生きていた頃、どんなに望んでもイエスの姿は見えませんでした。しかし、イエスがいない、見えないと思っていたその時も、深いところで彼はイエスと出会っていたのです。そして、誰よりもイエスの心を本当の意味で生きていたのです。彼の一途な思いをイエスは知っておられます。見えない中で、それでもイエスを探し求める私たちの歩みが無駄ではないことをイエスは教えてくれます。ついに探し求めていた方と出会う時…。それは地上においては闇の時です。イエスとの本当の出会いはそこから始まるのです。