待降節は「待つ」ことの意味を教えてくれます。今日の福音では、世の終わりについて語られています。救いの完成を待つ間 私たちは、この世の歩みを どのように受止めて歩めばよいのでしょうか。そこにおいて様々な痛み悲しみを体験します。それは、私たちの目を、本当のものに向けさせるためのものであるとイエスは語ります。何があっても、イエスは私たちと共にいて下さり、導いてくださる方です。それは イエスの約束でした。そのことを忘れずに生きるための知恵がここあります。
「あなた方は、人の子の前に立つことができるように、目を覚まして祈りなさい」と言われています。私たちの感覚を鈍らせるものに注意しながら「人の子(イエス)の前に立つことができるようになれ…」とはどういうことでしょうか。
言うまでもなく 私たちの信仰の目的は、イエスの前で、自分の正しさ、清さ、立派さを披露する事ではありません。それは、福音で言われる信仰の姿でも目的でもありません。イエスが大いなる力と栄光を帯びて来られるその日のことを聖書は ”解放の時”と言っていますが、それは 私たちの正しさや信心深さなどによって実現されるものではないのです。私たちの救い、罪からの解放は、イエスの十字架と復活によって初めて与えられるものです。ですから、イエスの前に立つとすれば、”ゆるされた者として 救いの恵みに依り頼む者として” 立つのです。そこに私たちの救いがあります。また、そこを目指して歩むのが私たちの信仰です。しかし それは死後の話しではありません。私たちが生きている今、イエスの前に立っていることを意識して歩むのです。ですから、「いつも目覚めていなさい。祈りなさい。」と強調されているのです。この世の事柄、この時代を支配しているものに目を奪われることのないように「目覚めていなさい」と語られているのです。そのために大切なもの…それは、イエスの言われる「祈り」です。祈りとは、自分が神の前にあることを思い、その神に愛されていることを意識して、その神との間で深められる友情の交換です。それが「目覚めた人の祈り」だからです。
 世の終わりに伴う、様々な徴についても語られています。私たちはこれをどのように受止めるでしょうか。実は、ここにも福音書の興味深い意図があるのです。ルカはその徴を簡潔に語りながら、むしろ その出来事に対して 人々がどういう反応を示すかに関心を持って語っています。ルカの関心は、神の出来事に対する ”人々の反応 ”なのです。
 「その時 諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」。こんなことが起こったら誰もが混乱し、パニックに陥ってしまうでしょう。しかし、福音書は人々を脅すために書かれたのではありません。大事な事は、同じ体験しながら、混乱に陥る人とそうでない人とがいる、その違いは何なのか、ということなのです。そこが大切なところです。どうしてこれらの徴を前にして人々は混乱に陥るのでしょうか。確かに生死に関わる危機が迫っているのですから、恐れるのは当然です。ここで表されている 混乱の意味を考えなければなりません。
 一つは神殿崩壊という出来事が表しているように、自分たちが今まで頼りにしていたものがすべて崩れ去ってしまうという現実です。当時のユダヤ人はみな、自分たちこそは、神に選ばれた選民であると考えていました。壮大な神殿は彼らの信仰を表す象徴でした。ところがイエスによれば、この神殿も含めて 世の終わりには、全てが無力なものになってしまうと言います。そこでは、何にも頼ることができないのです。他の福音書では、それでも「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13章31節)と言うイエスの言葉を語っています。最後の最後に、私たちが頼れるものはこのイエス・キリストのことば、約束でしかありません。しかし、ここに登場する世界とそこに住む人々の反応はどうでしょうか。福音を受け入れず、拒否してしまったために、混乱と恐怖に襲われているのです。恐怖、混乱、恐れの原因はそこにあります。それが、この世の現実、私たちの現実でもあるのです。人々は、この出来事が何のために起こっているのか分からないために混乱し 恐れるのです。ですから、彼らにとって 目の前に起こる出来事は世界の崩壊としか受止められないのです。しかし、イエスの存在を知っている者にとってそれは「救いのしるし」なのです。イエスは世の終わりについて、それは神が創造された世界の完成の時であり、私たちの救いが実現する恵みの時と語りました。それ故に、これらの事が起ったら、慌てずに救いの時が近づいていることを悟りなさい と言っているのです。
この事を正しく理解していなければ、これから祝おうとするクリスマスの意味、イエスによる救いの意味を十分に理解することが出来ません。
 私たちはすでに、世の終わりに何が起こるかを福音によってはっきり知らされているのです。しかし、人を脅かし不安に陥れる宗教の場合、これから何が起るか分らないと 先の不安を煽ります。それは、福音の世界とは 真逆の発想です。
福音書は、厳しい迫害の中にある人々を励ますために書かれたものです。やがて、訪れる勝利の時、それが解放の時です。この 神の約束を信じないならば、この世の予期せぬ出来事は、私たちに恐怖を与える出来事でしかなくなります。
 「目を覚ましていなさい」と言うメッセージを それぞれの福音書は、それぞれの観点から語っています。マルコは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(13章31節)、マタイは「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(25章40節)と言う言葉で、「目覚めて祈りなさい」というメッセージを伝えようとしています。
 ルカ福音書はこれを「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)と語ります。なぜ、目覚めていなければならないかというと ”神に心を向けるため、祈る心を忘れないため”です。私たちは、祈りを通して神の思いに触れるのです。

 祈りが何であるかを教えてくれる「ある無名の兵士の祈り」と呼ばれる詩があります。

『大きなことを成し遂げるために/力を与えて欲しいと神に求めたのに
    謙虚を学ぶようにと 弱さを授かった。
    偉大なことができるように健康を求めたのに/より良きことをするようにと 病気をたまわった
  幸せになろうと富を求めたのに/賢明であるようにと 貧困を授かった
  世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに/得意にならないようにと 失敗を授かった
  人生を楽しもうとして あらゆるものを求めたのに/あらゆることを喜べるようにと 命を授かった
  求められたものはひとつとして与えられなかったが/ 願いはすべて聞き届けられた
     神の意にそわぬものであるにもかかわらず/心の中に言い表せない祈りはすべて叶えられた
     私はあらゆる人々の中で 最も豊かに祝福されたのだ』