年間最後の主日である今日、教会は「王であるキリスト」を祝います。イエスが王であるということは、言うまでもなく「受難と復活」を通してです。王であるキリストは貧しい家畜小屋に生まれ、生涯の終わりには犯罪人として十字架において死なれた方です。ここで言われる王という言葉の中には「あのイエスこそ、私たちの救い主である」という意味が込められています。私たちは、イエスをどう理解しているのでしょうか。どのような意味で王であるキリストを受止めているのでしょうか。

  イエスの十字架の上には「I N R I」と書かれた罪状書きがありました。それは「ナザレのイエス ユダヤ人の王」という意味でピラトによって付けられたものです。(I:イエス、N:ナザレ、R:王を意味するRex、最後のI:ユダヤ人というラテン語の頭文字、ヨハネ1919参照)

  ピラトがこの罪状書きを付けさせたのは、ユダヤ人への腹いせのためでもあったことでしょう。祭司長を中心とするユダヤ人たちは、「ユダヤ人の王」と自称するイエスは皇帝に背く犯罪人だから、もし彼を許すなら、あなたは皇帝の友ではなく反逆者になると脅したのです。それでピラトは、十字架につけるためにイエスを彼らに引き渡しました。ピラトは、自分を脅すユダヤ人たちへの恨みもあって十字架上に罪状書きを掛けさせました。その両脇には、お供のようにして二人の囚人を従わせ、中央に掲げられた犯罪人イエスこそ、あなた達ユダヤ人の王なのだという皮肉も込められているのです。

  しかし、不思議なことに これによって“イエスとは誰であるか”という福音の重要なメッセージが明らかにされることになったのです。十字架につけられたこのイエスを通して、神の救いは実現しました。それは、神の恵みが人間の罪に打ち勝った瞬間です。神の子イエスが十字架上に死ぬことによって罪のゆるしが実現し、それによって神の民の真の王となって下さいました。「INRI」ナザレのイエス ユダヤ人の王 という罪状書きは、期せずして神の救いを告げる意味を持つものとなったのです。

  イエスのもとに集められるのはユダヤ人だけではありません。地上の全ての民です。地上から上げられたイエスは、ご自分のもとに世界中の人々を引き寄せられます。この王のもとに、新しい神の民、教会が築かれます。その教会を通して救い主キリストのみ業は、私たちの思いを遙かに超えて今後も続けられていくのです。

  ピラトは、自分が掲げさせた罪状書きが こんな意味を持つものになるなどとは夢にも考えていなかったでしょう。彼は神への畏れも信仰も持っていませんでした。しかしそのピラトが、イエスによる救いの真理を見事に証しすることになったのです。彼が書いた「I N R I」は、十字架につけられたイエスこそ真の王であり、救い主であることを告げる言葉として、世の終わりまで語り継がれることになりました。またピラトと同じように祭司長たちも、そして私たちも、神の救いのみ業の進展のために用いられているのです。

  十字架のイエスの頭には茨の王冠が被せられ、衣服は全て剥ぎ取られ、手足は十字架に釘打たれています。見るに耐えない残酷な光景です。しかし、これこそは、旧約時代から預言され 約束された神の救いの実現であったと福音書は語っているのです。

  「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」で始まる詩編22は、その全体がイエスの十字架の死を預言し、十字架の死においてイエスが味わった痛み苦しみを語っています。このように、イエスの十字架は 旧約聖書において既に預言されていました。それは何を意味しているのでしょうか。イエスの十字架の出来事は全て、私たちの救いのための 神のご計画だったということです。イエスの十字架は、神のみ心の実現でした。神の独り子であられるイエスが十字架にかかって死ぬことによって、イエスのもとに新しい神の民が結集されていく…、そこに神の新しい救いの計画があったのです。このようにして、祭司長たちも、ピラトも、その部下である兵士たちも、罪ある私たちの限界さえもみな、神の救いの計画実現のために用いられているのです。

  もちろん 祭司長たちは、自分たちの信念によってイエスを殺しました。ピラトは自分の地位を守るために死刑判決を下しました。兵士たちも自分たちの思いによってイエスをなぶり者にしました。十字架の悲劇は、自分の思いを神のみ心と取り違える人間の過ち、自分の地位を守るために真実を曲げようとする人間の過ちからきたものです。そこにイエスの十字架の悲劇があります。私たちは、謙虚に自分の罪を自覚しなければなりません。しかし神は、そのような私たちの悲惨な現実の中においてさえも、救いの計画の実現を諦めませんでした。たとえ、この世の罪の現実が いかに圧倒的な力をもっているかに見えようとも、最終的にこの世を救う力は 神の愛とゆるしの中にあります。そのことをあなたは信じるか、と福音書は私たちに問うているのです。

  ですから、私たちは置かれた現実がいかに厳しくてもイエスの十字架を見つめて歩みます。そして神がいかに慈しみ深い方であるかを学びます。この世の現実がいかに悲惨なものであっても、本当にこの世界を支配しておられるのは愛とゆるし、慈しみの神であるキリストであると信じて歩みます。私たちにはまだ見えてない、また明らかにされていない神の計画もたくさんあることでしょう。しかし、私たちが知らなければならない事…、それは、人間の罪とその現実は、イエスの十字架と死の前に何の力もないということです。愛とゆるしの王キリストのもとに私たちを集めて下さった神ご自身が、聖霊の働きを通して確かに導いておられる…、そのことに希望をおいてこれからも歩むのです。

  イエスは、弟子たちと別れる前、御父に向かって彼らのために祈りました。「父よ。彼らのためにお願いします。…彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって、どうか彼らを守ってください」と。(ヨハネ179参照)。

  このイエスの祈りによって神の御国は、これから来るべきものでもあると同時に、すでに私たちのもとに存在するものともなりました。私たちの中で存在し、現に動き出しているものである神の国。それがイエスの語る福音なのです。

  本来良いものとして始まったこの世界は、今傷ついています。その傷は深いものです。この傷を癒すことができるのは神の愛、聖霊による慰めと癒しのみです。その傷が、十字架のイエスの傷と一つになっていることを知らされながら、イエスの十字架と復活による救いの完成に向かって旅を続けるのです。そこに神が約束される新しい天と、新しい地があります。それは、隠された形で、しかしすでに 私たちのもとで始まっている現実です。

  洗礼において私たちは神の国の一員に加えられました。しかし、今の私たちは 神ご自身のなさるこれらすべての事柄の一面を見ているに過ぎません。それゆえに、地上の教会においては、秘跡の恵みと聖霊の導きがどうしても必要なのです。イエスの愛のみが、すべてにおいて、すべてとなりますように…。