皇帝ティベリウスから始まって、ピラトやヘロデ、時の大祭司に到るまで、歴史上の人物を何人も出しながら、これから語ろうとするイエスの出来事をルカは示しています。それは、イエスにおいて起った出来事が 架空の事柄ではなくて、歴史の中で 実際に起った出来事であり、それゆえ私たちとも深く関わっている事を教えるためです。

先ず 初めに起きた事は何だったのでしょうか。それは「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ということです。イエス・キリストの救いの出来事は、イエス誕生の時からではなく、先ず 洗礼者ヨハネにおいて起ったことから始まるのです。この洗礼者ヨハネによる活動開始から新約の時が始まる 重要な転換期でもあるのです。

イエスに先立ち イエスのために道を整えること、それが洗礼者ヨハネの使命でした。その活動は、神の言葉が彼に降ったことによって始められたことが告げられています。それは、ヨハネがそれまで学び、温めてきたことを語り始めたという話しではないのです。彼個人の思いや決断から始まったものではなくて、神の言葉がヨハネに降ったことによって始まった…。そこに目を留めながら私たちは神のみ業を思い起こすのです。イエス・キリストによる救いの出来事は、このようにして 神ご自身によって始められたものです。人間の考えで始められたことではありません。しかも、神の言葉がヨハネに降ったのは なんと「荒れ野」においてだったのです。そこから神の救いのみ業が始まっていくのです。なぜ、荒れ野なのでしょうか。これは大変重要なことです。

すでに イザヤ40章において語られている「主の道を整えよと叫ぶ声」としてヨハネは登場しました。主に先立って歩み、主の道を整えること…、それがヨハネの役割でした。

 「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり」と語られています。山あり谷あり、曲がりくねった道あり、それが荒れ野です。その山を削り、谷を埋め、曲がった道をまっすぐにする…。そのようにして整えられるのが「主の道」です。ヨハネは、イエスの道を整えるために遣わされました。救い主の道は、まだ整っていません。イエスがお生まれになり、その活動が始まろうとしているのに、そのための道はまだ出来ていないのです。人々の心は荒廃し、神の言葉を受け止める準備も出来ていません。まさに そのような状態が「荒れ野」です。

現代の私たちにおいても同じです。私たちの心も荒れ野の状態にあるのです。私たちは、自分自身の中に不満や妬みを抱え、憎しみの心に振り回されています。自分自身の中に荒れ野を持っているのです。神は そのような私たちのために、イエスを遣わされました。その救いに与るためには、私たちの心の荒れ野に、主の道が整えられなければなりません。

ヨハネは、イエスに先立って 悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。彼が授けていた洗礼は、イエスの十字架と復活以前のものですから、今私たちが受けている主の名による洗礼ではなく、「悔い改め」を意味するものでした。洗礼の目的は罪のゆるしです。罪というのは、個々の悪行のことではありません。ここで問題となっているのは、それら全ての根源にあるものです。それは、私たちの心が、神から離れていることと関係があります。自覚もなしに、けれども神に背を向けて歩んでいる。それが人間の罪です。その時、私たちが見つめているものは自分自身です。自分の思い、自分の願いを見つめ、それをいかに実現するかを考えているのです。そのように自分を見つめて歩んでいる時、私たちはまわりの人を愛する対象としてではなくて、比較の対象として見なしています。そうなると、愛とは正反対の妬みや憎しみがそこから生まれます。熱心に良いことしながら、語りながら…、そこに私たちの荒れ野があります。それは人間の罪と深く関係しています。その荒れ野から抜け出すためにどうすればよいのか、その道をイエスは教えているのです。

 「悔い改める」と言うと、自分の犯した罪を後悔して、再び同じ過ちを繰り返さないように決心する事と普通は思うでしょう。しかしそれは、個々の悪行についてのことです。聖書の語る罪は、それらの根源にある罪、神に背を向けて歩んでしまっている人間の傾きなのです。誰一人、そこから逃れられる者はいないのです。悔い改め…、それは単なる後悔ではなくて、神に心の向きを変えることです。神の思いとは正反対に向かって歩んでいた私たちが、神に顔を向け 方向転換をすることです。放蕩息子(ルカ15章参照)のたとえでも語られているように、父である神のもとに立ち帰ることです。洗礼者ヨハネは、この悔い改めの印としての洗礼をヨルダン川で授けていました。

 悔い改めへの促しが、荒れ野のような私たちの心に響くことによって、主の道が整えられます。そしてイエスによる救いのみ業が、一人ひとりの中で始まっていくのです。

 そのためにヨハネは、悔い改めの必要を語りました。それは、自分の罪の現実に気付く事です。私たちは、まず 自分の中に荒れ野があることを自覚しましょう。平和を失い、愛を失い、妬みや憎しみに傷つきながら、互いの関係を破壊しています。神から離れていることがそれらの苦しみの原因です。ですから本当の解決は、神に立ち帰ることです。その現実を、ありのままに知るためには、神ご自身から来る み言葉の光と助けがなければなりません。

 悔い改めの道を歩むとは、現実離れした理想を掲げて生きることではありません。私たちの具体的な生活から始まるのです。日々の生活において、自分の立場からしか見ていなかった目を、そして耳を 神の方に向け直して歩むところに、悔い改めの道が始まります。しかも、私たちが自力で 切り開いていくのではありません。すでに、イエスの十字架と復活によって 神ご自身が、障害物を取り除き、谷を埋め、曲がりくねった道が、すでにまっすぐにされているのです。イエスが、地上で歩まれた生涯の歩みは、神ご自身が、私たちの荒れ野の中に入り、救いの道を切り開いてくださる歩みだったのです。生涯をかけて そのことに気付く事が私たちの悔い改めであり、回心への歩みなのです。いつの日かそれは、主の十字架と復活につながっていきます。

私たちの「悔い改め」は、イエスが先に切り開いて下さった道を通って初めて可能となります。私たちが歩んでいるこの世界も荒れ野ですが、その荒れ野に、一筋のまっすぐな道が開かれていると聖書は語ります。この救いの恵みに支えられながら歩むよう、私たちは招かれているのです。

「荒れ野」…それは、私たちを満足させるものが何もないところです。そこに主のみ言葉が降った。世のものが何もないところで、霊的な恵みを受けるために 神のみ心に耳を傾けるのです。悔い改めなければならないのは、その声を聞く私たちです。谷は既に埋められています。私たちの努力によって行われるのではなく、み言葉の力によって実現されたものです。貧しい者は満たされ、弱い者は強められ、へりくだる者は高められるとはそういうことです。イエスを迎えるにあたって、私たちが心得ていなければならない大切なことです。

救い主の降誕を待ち望む私たちの生活は、愛と慈しみの新約に相応しいものでしょうか。それとも、旧約の律法に重きを置いたものでしょうか。イエスが私たちの救い主であることを 本当の意味で証しする生き方とならないならば、私たちにとっての新約は 未だに始まっていないことになります。主の御降誕がなぜ、私たちにとって喜びなとなるのか…、その意味を思い巡らす待降節でありますように…。