マリアは急いでいました。一刻も早く会わなければならない人がいたからです。それは親戚のエリサベトです。彼女は、祭司ザカリアの妻で子供がなく、不妊の女と言われていました。しかし、大天使ガブリエルから神の秘められた計画、救い主の道を準備する洗礼者ヨハネの母となる計画を告げられるのです。初めはザカリアもエリザベトも、告げられたこの知らせを信じる事は出来ませんでした。それは当然なことです。人間の力で受止められることではないからです。

マリアにしても同じです。不安がなかったはずはありません。恐れがなかったはずもありません。ヨセフとの関わりが切れてしまう可能性さえあったでしょう。しかし、マリアは様々な不安抱えながらも、神の導きに信頼して 自分に向けられた神の計画を受け入れました。そして今、同じ体験を持つエリザベトに会うため、ユダの山里を急いでいるのです。エリサベトなら分かってくれると信じて。それだけではありません。もっと大切なことがありました。それは、二人の身の上に起こった神のみ業について語り合えるということでした。だから、マリアは急いでいるのです。

 マリアが、ザカリアの家に入ったときエリザベトの胎内の子は喜びおどった、と書かれています。大切なことは、深刻な事態に置かれているマリアにエリサベトが語った次の言葉です。「あなたは女の中で祝福された方。あなたの胎内のお子さまも祝福されています」。

 神が、二人のうちになさっておられる不思議な出来事。この計画を前にして二人は、謙虚に跪くしかありません。神がなさっておられることを信じ、一緒に歩もうとエリザベトはマリアを励ましています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いなことでしょう」。ここでエリサベトが見ているのは、マリアがこれから直面する困難というよりも、神のご計画です。必ず実現へと向かっていく神のみ業なのです。そうです。二人はそのことを信じ、神の大いなるみ業を語り合っているのです。このエリサベトに励まされてマリアは、今日の福音の続きにあるマリアの賛歌の中で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(1・46‐47)と歌っています。実は、ここで初めてマリアの口から「喜び」という言葉が出て来るのです。喜びの意味の深さを知らなければなりません。事態は何も変わっていません。重荷が無くなったわけでもありません。不安もいっぱいです。しかし、神のなさる偉大なみ業について共に語り合う交わりの中で、悩みが喜びに変えられ、不安や恐れが讃美へと変えられていくのです。このマリアとエリサベトの姿を通して見えてくるもの、それが教会の姿です。教会は、単なる悩みについて語り合う場所ではありません。それなら他にもたくさんあるでしょう。大切な事は、それでもそこに 神がおられ 共に働いていることを体験する交わりの場、それが教会なのです。

マリアは地上の世界に目を向けています。この世界に働く神の救いの計画に目を向けているのです。自分はこの世において、取るに足りない小さな存在かもしれない。しかし、そんな私にも神は目を留めてくださり、ご自分の計画の中で用いてくださっている。私は、主のお役に立つことができる。マリアは そのことを喜んでいるのです。メシアが生まれる。それは喜ばしきお告げです。しかし、最も喜ばしいことは、そのメシアの誕生と神の救いの計画が 自分と無関係ではないということです。私も確かにそこに関わらせて頂いている。「主は、このはしためにも目を留めてくださった」…このマリアの喜びの体験を 私たちも日常生活の中で思い起こす必要があるのです。

 もし 私たちが、自分の幸・不幸だけを考えているならば、地上の人生はまことに不可解な重荷に満ちものでしょう。なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。なぜ私ばかりがこんな重荷を負わなければならないのか…。そう言って嘆かざるを得ないのです。互いに対立し、反目し、争い、殺し合っているのがこの世の姿です。私たちの身近なところにも、人と人とが共に生きられない現実があります。しかし、決して絶望することはないのです。神はこの世界に来られ、その中で生き、救いの完成に導いておられるのです。そして、やがて時が満ち、神の約束は実現します。この救いの約束は、ただ単に 遠い未来を待ち望むだけではありません。

この世における神のみ業に思いを向けるなら、マリアのもとに天使が運んできたあの重荷の意味も見えてきます。すべては、恵みによって神が私たちにしてくださったことです。マリアと共に私たちもこの祝福を生きるよう招かれているのです。置かれている状況は刻一刻と変わっていきます。しかし 神を礼拝し 賛美する生き方は変わることがありません。

「主よ 人の望みの喜びよ」というバッハの名曲があります。今日のルカ福音書1章39節以下と深い関係があります。マリアのエリサベト訪問を記念する日のために、彼はこの曲を作りました。あの時のマリアの思いに心を馳せながら、今日の福音を黙想しましょう。

 マリアは畏れをもって天使の言葉を受け入れたものの、しばらくは誰にもそれを話すことができませんでした。心の奥深くに受け留めながら一人で思い巡らすことしかできなかったでしょう。しかし、マリアは立ち上がり エリサベトを訪問します。あの時、天使ガブリエルから伝えられた言葉「エリサベトも神の力によって子どもを身ごもり、もう6カ月になっている」と語られた天使の言葉をマリアは覚えていたのです。ですから、エリサベトにだけはどうしても会って、自分の身に起こったことを打ち明けずにはいられなかったのです。これが、マリアが急いで出かけ、ユダの山里に向かった理由です。

「急いで」という言葉に、マリアの気持ちが示されています。聖霊に満たされ、声高らかに語るエリザベトの言葉を聞いた時のマリアの感動が伝わってきます。マリアの心に大きな喜びと希望が湧き起こります。神から使命を託されてそれを引き受けたマリア。同じ体験を持つエリサベトはそれを瞬時に理解し、その使命を共に生きる決意をしています。たとえ 世間の無理解、あざけりがあろうとも、神の望みは必ず実現します。それに参加できることは 二人にとって大きな喜びだったのです。ここで注目したいのは、ここで出会っているのは マリアとエリサベトだけではなく、マリアの胎内の子イエスと、エリサベトの胎内の子ヨハネも出会っているのです。ヨハネの喜びは、母エリサベトの胎内にいる時だけのものではありません。あれから30年後、ヨハネはあらためてヨルダン川でイエスと出会います。悪の力が横行するこの世にあって、イエスが人々の救いのために苦難を引き受け、自ら命を差し出す歩みを始められる…。ヨハネは、このイエスを人々に示しながら喜んでいます。

 祭司ザカリアとエリザベト、そしてヨハネが感じた喜び、またマリアが感じた喜び、さらに イエスに出会った私たちの喜び。――その喜びを バッハはあの名曲「主よ 人の望みの喜びを」で表現しているのです。

 

『なんと幸いなことか、わたしにイエスがおられるとは。

あぁ、どれほど堅くわたしは彼を抱くことか。

イエスは わたしの心を力づけてくださる、

わたしが病のときも、悲しみのときも。イエスが わたしにおられる。

彼はわたしを愛し、ご自身を与えてくださる。

あぁ、それゆえ わたしはイエスを離さない、

たとえ わたしの心が破れても。』