今日の福音は、「イエスとカナンの女の出会い」と言われる箇所です。この出会いは、最初から意図されたものではなく、父なる神の意志が働いて起った出来事と言えるでしょう。

 異邦人の地と呼ばれるティルスとシドンへイエスが行かれたのは、迫って来る厳しい状況の中で、出来るだけ人と会わないことが相応しかったからでしょう。しかし、そこにも意図せぬイエスとの出会いのチャンスがあったのです。そこへ、カナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)と叫んでいます。カナンの地は、イスラエルとは区別された異教徒の地でした。この女は、愛する娘のことで「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」とイエスに懇願しています。愛する娘を思う母親の切実な思いが伝わってきます。誰も治すことの出来なかった娘の苦しみを思い、そこからの解放をイエスに求めているのです。「主よ、ダビデの子よ」という彼女の呼びかけは、イスラエルの民にとっては救い主への呼びかけを意味する言葉です。「主よ、わたしを憐れんでください」(キリエ・エレイソン)という言葉は、まさにこのような教会の信仰から生まれた祈りの言葉です。

 心の奥底から絞り出された女の叫びに対して、イエスはすぐには何もお答えになっていません。不思議なことです。このイエスの沈黙を私たちはどのように受け止めればよいのでしょうか。私たちは、イエスが苦しみ、悲しみの中にいるカナンの女の叫びにすぐにでも答えてくれることを期待します。しかし、イエスは何もお答えになっていません。女は、イエスに希望をおき、必死に助けを求めているのに、イエスは何もお答えにならない、これはどういう事でしょうか。それでも、この女性は諦めません。助けを求めてなおも叫び続けながら、イエスが応えてくださるまで熱心にイエスを追い求めています。この時の、イエスの沈黙を通して私たちは信仰が何であるかを知らされます。それは、神のみこころに答えることが私たちの信仰であって、その逆ではないということです。大切なことは、神のみこころに私たちが答えること、それが信仰であることに気付きなさいということなのです。最初から、私の願いが聞き入れられるかどうかは問題ではないのです。

 弟子たちはイエスに「この女を追い払ってください。」と言っています。この女があまりにも執拗に叫び続けてくるので早く追い払ってください、と願っているように聞こえます。あるいは、「いつも、あなたがしておられるように、この娘を早く癒し、彼女を解放してやって下さい。」と思ったのかもしれません。この「追い払う」という言葉を文字どおりに受け取るなら確かに厳しい拒絶の言葉にも聞こえますが、それだけではないようです。実は、この言葉には、「去らせない」「行かせなさい」という意味も含まれています。しかも、「病気などから人を解放する」という意味もあります。弟子たちの思いがどのようなものであったとしても、この時イエスが発した言葉は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)という言葉でした。この言葉を聞いただけでは、私たちもすぐには意味が分りません。それでも女は、「主よ、どうかお助けください」と叫び続けているのです。

カナンの女はイエスの言葉を聞いて、異邦人である自分がイエスの救いに直接与れるような者ではないことを認めているのです。しかし、彼女にとってそんなことは問題ではありません。それでも、彼女は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と語っています。なんと信頼に満ちた言葉でしょう。ここに、イスラエル人にも見られない深い信仰があることをイエスは見抜きました。イエスは、初めからこの女をそこへ導くつもりであったのかも知れません。イエスは言っています。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように…」。

耐え難いほどに厳しいイエスの言葉に対しても彼女は屈することなく、神の憐れみを願い求めました。そして、「おっしゃるとおりです。しかし、子犬でさえも食卓から落ちるパン屑は頂くではないですか。神の食卓から落ちる恵みのパン屑をどうして愛なる神が拒否されるでしょう。どうか、あなたに信頼する私を見捨てないで下さい。」と願い続ける強い信頼が彼女にはあったのです。イエスを通して与えられる恵みに、何としても与らせて頂きたいという強い望みがそこにありました。それは、イエスが私たちに求めている信仰でもあります。そこへ導くためのイエスの生涯でした。

イエスは女に向かって言っています。「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように…」。信仰とは言えない私たちの貧しい思いを、イエスは価値ある信仰にまで高めて受け止めてくださいます。そこから、私たちの信仰の目が開かれます。神の計画は、目に見える地上の現実を超えて働きます。信仰とも呼べない私たちの不完全な願いさえも、イエスは信仰にまで高め受け止めて下さっているのです。カナンの女は、希望を持ちえないところに希望を置きました。この異邦人女性を通して、本当の信仰が何であるかをイエスは教えようとしておられるのです。